昔、一本とられた!
サンデルの講義でカントが提唱する自由の概念の説明を聞いて一本とられた。
確か内容はこうだったかな。
自由とは理性的な状態をさす。
本能をコントロール出来てない人は自由ではない。
自由とは不自然なものである。
手の平から石を地面に落とす。石は地面に落下する。落下する石は自由だと言えるだろうか? それは自由とはいえない。石は重力に逆らえなかっただけである。石は重力という強制的な力に縛られて落下した。 これは自由とはいえないだろう。
とのことである。
なるほどなー。っと、当時の僕は頷いた記憶がある。記憶も曖昧だからほんとにこんな内容だったかも曖昧なんだけども。結構な真理を内包していると今でも思う。
人が本当に自由といえる状態は、強制的なものに対して抗える状態ともいる。
もしくは、従わないという選択肢がとれる状態。
自分で選べる状態なのだろう。
だが! この論理だと、お腹が減ったら我慢する自由と空腹に強制されて流されてしまうのでは、我慢する自由のほうが人であるといえる。 突き詰めれば、死ぬまで飢えを我慢する人がもっとも人であるということになる。
そこで気づく! 人の本質は精神に宿る。
しかし、精神に対して肉体が色々と要求する。
ご飯を食べろ!
睡眠をとれ!
刺激を満たせ!
とにかく、色々と要求してくる。
肉体からの欲求が人の持つ精神を歪めているというわけだ。
なので、肉体から精神を開放しようとして肉体を捨てる人がいたりする。
ゆえに、肉体を労わることは精神に良い働きもするということだ。
だから、身体を鍛えたり、良い食事をとったり、寝たり、性の解放が必要なのだ。
だが、肉体の支持に従えば従うほどに、精神は弱くなる。 肉体を精神の制御下におけなくなる。
そして、人は老いる。
肉体を鍛えても老いが肉体を蝕む。
そうなるとどんどん、本能の奴隷となりさがる。
本能の奴隷となった老人は他人に迷惑をかける。
介護の現場では老人のセクハラ、レイプ、奇声に暴言が日常だ。
肉体の衰えが精神を害した結果だろう。
老いという肉体的苦痛から逃れるために人は精神を肉体から開放しようとする。
だから、身体の命令を拒絶できる強い精神が必要なのだ。
しかし、自殺に向かう精神を養う必要ない。
だが、強い精神を生み出す必要はある。
これはズバリ!
つまらないという状態をどうにかする!
これに限ると僕は考えている。
つまらない状態を我慢できる人はきっと強い。
人間はつまらない状態でいる時が一番弱い時だ。
その状態で生きているというのは奇跡だ!
つまらないのに精神が壊れないのはチャンスだ!
だから、言う、「つまらない状態の時こそ精神力UPの刻」と思うべし。
つまらないものを面白く受け取れる、
そこからさらに面白く変化させることができる。
そして、自身で面白いものを生み出せる人間がもっとも自由な人間であることをここに定義したい。
エニウェイ!