僕はこれを読んでですね。
犯罪者を生んだ環境を作った人間にも罰を与えるべきだと
解釈しました。
例えば、
子供が犯罪を犯した場合。
親の教育責任。
周囲の外的圧力責任。
親や周囲の人間を
処罰の対象にすれば犯罪者はかなり激減する。
死刑なら、
親も周囲の関わった人間も全て処刑とする。
おお! 恐ろしい!
まるで秦の始皇帝の時代のようだ。
でもそれなら、親は必死に子供を教育するだろう、
本気で命がけで子供を教育するだろう。
年をとってからも油断できん、ボケ老人も減るだろう。
堕落して教育義務をサボった人から死んでいくような感じになる。
周囲も必死になる。
かなり息苦しい世の中になるだろう
だが、最大の欠点がこれにはある。
欠点というか、なんというか、あれだ!
法律や法律の運用が完璧にできるわけもない。
さらに善悪を固定化しなければいけなくなる。
一様、日本は法治国家らしい。
法治国家だと、何が悪いとか、何が良いとかって法律で決まるんだけども、法律には法解釈があるわけですよ。
んで、現状の日本は、法治国家と呼ばれてるけども、解釈次第では違法でも合法とか余裕でやっちゃう人がいっぱいるわけですよ。
というか、国が率先して違憲でも合法、違法でも無かったことにとかよくある話なわけですよ。
それが良いか悪いか知らないけども、超法規的措置とか言われたら、正しいだろうが、間違ってるだろうが「残念! はいそこまで! 終了~」なわけですよ。
だから、無理なんだよね。
環境で犯罪にはしってしまう人は運が悪かった。
環境が悪くても犯罪にはしらなかった人は運が良かった。
環境が良くて犯罪とは縁がない人はまじに運が良かった。
なので、犯罪者の人は運が悪かったし、それに捲き込まれた人も運が悪かった。
犯罪者の生産に加担した人も運が悪かった。
そういうことなんですよ。
でも、どんなに運が良くても駄目な人もいる。
運を活かせない人がいたりする。
だから、運が悪くても、運が良くてもいいじゃない。
とりあえず、懸命に生きればいい。
今日だけ一生懸命になればいいし、今日だけ真面目になればいい。
明日も継続できるならば、続ければいい。
生きてりゃいい!
それで、上等だよ
以上!