ねここねの思考手記

主にアニメ系 漫画系 らのべ系のサブカル系が中心です

貧乏人が罪を犯さず孤独に生きることの尊さについて考えると涙がでる

「貧乏は悪だ!」 と、誰かがそう言ってた気がする。なら金持ちは善か? そいういう話ではないだろう。貧乏だろうが金持ちだろうが悪い奴は悪いし、良い奴は良い。そもそも、善悪という定義が人によって違うのだから限定的な条件でしかその好悪は判断できないだろう。誰かにとって都合の良い存在は善であり、都合の悪い存在は悪でしかないのだ。そんな善悪の定義はいったんおいておき貧乏人が犯罪を犯さずに生きることは難しいことなんじゃないか? 最近はそんなことをよく考えます。

 

 よく無人販売店での万引き動画がネット上にUPされている昨今です。そこで万引きするような人達は大体が貧乏人です。最近話題にあがった純金製の茶碗の窃盗事件も生活困窮者が起こした事件でした。

 こういった犯罪は彼や彼女達が貧乏だから貧困だから起こる事件であり、仮に彼や彼女達が金持ちだったり裕福な資産家だったらまず起こさない事件だと言えるのではないでしょうか? 人は空腹になれば食べ物を欲しがり、寒ければ暖かい場所を求めまるものです。必要な物が足りてない人は足りてないものを補充しようとしているに過ぎないのが貧乏人が起こす犯罪なんじゃないかなと私は思います。勿論、貧乏だったり貧困だったりしても我慢して犯罪をおかさず慎ましやかに生きる人達もいるでしょう。人の物を盗むくらいなら飢えてしんだほうばまだマシと思ってそのまま餓死する人達だっています。悲しい現実です。自分が貧困で苦しい状況にも関わらず犯罪にはしらない人達というのはまさに国の宝とも言えるでしょう。世の中には金を沢山持っていて裕福で不自由ない暮らしをしていても犯罪を犯すど畜生もいるのに、金もない、友達もいない、仕事もないような人達が犯罪を犯さないなんてこれはもう、貴方は聖人君子の器ですか? と、思わざる得ないわけですよ。

 

 貧乏な人が貧乏な理由は色々とありますが、金持ちが金を沢山稼ぐために貧乏人から搾取するのが今の資本主義社会の仕組みですから、貧乏な人が貧乏な責任は全て金持ちが存在するからとしか説明のしようがないと思うんですよね。貧乏な人が金持ちになれないのは努力が足りない! 勉強しない。行動しない。働かない! 甘えんな社会不適合者共が! と、心無い台詞を言う人達もいるかもしれませんがね。それでも、貧乏人が沢山いる責任は金持ちの責任だと私は思います。貧乏人が沢山いるから金持ちが生まれるという逆も真なりというか。笑うから楽しいのではなく、楽しいから笑うのだという論理と同じかもしれませんけどね。ただ、貧乏だから犯罪を犯してしまうというならば、金持ちが貧乏人を沢山産んでるのだから金持ち相手に犯罪を犯してしまう貧乏人は金持ちにやり返しただけなんじゃないかとも思うのです。勿論やり返したらいかんのですがね。日本の法律で自力救済は禁止されています。殴られたから殴り返しても罪になるのが日本の法律です。殴られたら即座に反転して警察に助けを求めるのが正しい対処法なのです。盗まれたから盗み返しても罪になります。そいう社会であるからこそ治安が維持できるという利点もあるので自力救済の禁止という法律はわりと良い法律だとは思います。

 

 いじめられてるから、反撃する。搾取されてるから反撃する。結局は犯罪を生んでるのは合法的に金を貧乏人から搾取する金持ちの責任なんじゃねーの? 貧乏人を産んだ責任が金持ちにあって。貧乏で苦しんでる人がさらに犯罪を犯して捕まってしまう。貧乏がゆえに金持ちから物を盗んで捕まってしまう。それは因果応報なのではないのだろうか? 勿論、貧乏だろうが、他人から物を盗めば罪は罪である。犯罪である。だから多くの人は罪を犯さずに生活をしている。だがしかし、それは合法的にお金を搾取されているんだけど非合法な手段で自分のお金を取り返しにいったら逮捕されて余計に酷い目にあったでござる現象が起こるから我慢してるだけなんじゃないだろうか。ようするに今の日本は貧乏人の我慢による理性で治安が保たれていると言ってもいいでしょう。罪を犯さない貧乏人はやはり国の宝である。

 

 まあ、長くなったけどね。要するに貧乏人が起こす万引きとか窃盗のような軽微な犯罪は金持ちが要因なのだから金持ちから盗んだものは金持ち的に被害が少ないなら許してやってもいいんじゃね? とか思うわけよ。 貧乏人がより貧乏な人から盗むのはまじに許せないがな。でも、貧乏なせいで他人から盗んでしまうのだ! 足りない人が沢山持ってる人から分けてもらいさえすれば犯罪なんて起こらない。それだけで解決するんだけど、沢山持ってる人達が独占しているせいで、貧乏人に分け与えないせいで沢山の人が不幸なる。ゆえに金持ちが一番の悪なんじゃねーのって感じる今日この頃です。

 

 と、まあ、貧乏人が悪いことするのは金持ちの責任だ! みたいな結論になるわけですが、日本の社会は累進課税で稼いだらその分多く税金を払ってるわけですし、弱者救済のための生活保護まであるわけです。お金持ちはお金持ちで税金を多く支払うことである程度の責任はおとりになっているような気もする。なので、貧乏人はお金に困ったら罪を犯さず生活保護を頼ればよいわけなんです。後はプライドの問題? 生活保護でももっと良い暮らしがしたい? とかそれでも思ってしまうのが問題?

 

 だが、それでも今日でもお金がないということで罪を犯す人が一定数いることは事実であり根深い問題ではあるでしょう。

 

 そして、貧乏でも孤独でも罪を犯さずに生きている人達はなんと我慢強く尊い存在なんだろうと感じるのですよ。搾取されても搾取されても搾取され続けても働き続ける尊さに涙が出ます。

 

 そう思わないかな?

 そう思わない貴方はきっと恵まれた人です。多分。

改訂版 金持ち父さん貧乏父さん ――アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学

 

生きてる価値もないし死にたくなる気持ちをどうにかしませんか?

 35歳を過ぎたあたりからだろうか。半年に一度は死にたくなる。正確にいえば死にたい気持ちになる。それは何故かというと自分が自分自身に価値を感じないからである。

 

 そして、そっと検索する。キーワードは「生きてる価値もないし死にたい」である。

 そうするとどうなるか?

 ここのページが検索結果として帰ってくるわけです。

 少し調べてみると、相談員の時給は1800円くらいからボランティアまで様々な雇用形態があるのがわかる。ふむふむ。なるほどなぁーと思いながら、見ず知らずの相談員に自分は「生きてる価値もないし死にたいです」と、相談したところでなんになるのだろうか? そんなことに意味も意義も見出せないのが私という人間のようなので相談することもしないわけだが、年間2回は「生きてる価値もないし死にたい」と検索する私である。検索する度にお馴染みの電話番号が表示されるわけである。うんざりする。

 ここに電話する気はまず起きない。ここに電話して何かが解決すると思ってる頭ハッピーマニアなトンチキ野郎がいるなら是非とも知りたい。自殺の相談窓口に電話して私の悩みは解決した! 生きる喜びを見出せたとかいう人は存在するのだろうか? いや、まあ、するんだろう。1億2000万人もいたらいるだろう。それでも、自殺者数は年間3万人なわけですがね。個人的に死にたいと思っても死ねる人は100人に一人いるかどうかと思うんだよな。知らんけどな。だから死にたいと思ってる人は予備軍は300万人くらいはいると思うんだよ。まあ、ようするにグーグルで「死にたい」みたいなワードで検索するやつはかなりの数いると思うだけども、いきつく相談窓口はお決まりのこれである。

 おい! いい加減しろ! これじゃあ何の解決にもならんのだよ。もっと自殺したくなくなるような。前向きになれるものをや、目から鱗が落ちるような、コペルニクス的発想を得られるようななんかこうキャッチーなサイトにヒットしておくれよ。こんな電話番号をつきつけられても何も解決しないし、ほとんどの人は相談しない。死にたいという相談は誰かに分かってもらえるような相談じゃないからそもそも電話しても無駄であり徒労なんだよと言いたくなる。勿論、そうじゃない人もいるだろう。それでも「死にたい」と検索する人は後を絶たない。そして何も解決しない電話番号である。その先に電話して救われた人も星の数ほどいるのかもしれないが、少なくとも私は電話する気すら起きない。

 

 電話する気すら起きない私の「生きてる価値もないし死にたい」という気持ちは嘘なのだろうか? うん。半分は嘘である。心のどこかで自分は生きてるだけで価値はあると思ってさえいる、死ぬにはまだ早いという気持ちもある。だから結局は死なないでダラダラ生きているのである。実にくだらない。あーくだらない。そんなくだらない人生と決別するために、新しく何かを始めたり勉強したり、仕事したり、貯金したりするのである。そして、明日からも変わらず私は働き続けるのである。

 

 結局、自分で自分に折り合いをつけて生きれているうちは死なないだろうけども、それでもふとした瞬間に自制を失って死ぬような気もする。そして、年を重ねるうちに自制心というものは衰えてくるのだろう。だから高齢者の自殺は増えるのである。

 結局は自殺しるのは時間の問題ともいえる。遅いか早いかの違いである。しかし、遅いか早いかということは生きてる間においては重要な要素なのである。なので、自殺するにしてもできるだけその時期を遅らせれるように努力する方向性で生きていくのが一般的である。勇気を持ってまだまだこれから人生の幸せの頂点で死んでいたほうが良かったという人もいるかもしれないが。その結果は死んでみないことには分からないのである。なので今日も死にたいと思ったとしてもなんとか生きて明日を迎える選択をするしかないのである。

 

 あああ、無常、諸行無常なりけり。

 

 

水原一平の気持ちが俺にはすごく分かる。ギャンブル中毒患者は得てして嘘をつく!

 水原一平は大谷翔平を何故裏切ったのか? 

 その核心は本人にしか分からない内実だろう。


 だが、今回何故あのような発言に至ったのかは理解できる!


 ギャンブル中毒患者特有の自分の都合良い嘘をつく現象である。
 ギャンブル中毒患者は本当に息を吐くように嘘をつく。自分の都合良い嘘を並び立てる。
 負けたことを勝ったと言い張ったり、盗んだことを貰ったと言ったり、借りたものすら貰ったと言ってしまうのだ。
 ギャンブル中毒患者は今その人を騙せたらそれでよいのだ! その瞬間に目の前の人を騙せたらいいのだ。

 水原一平は大谷の公私共に支えてきた。アメリカでの契約や支払いの決済の度に水原が大谷へ確認してから決済していては不便極まりない。
 ある程度の資金は水原が預かって入金できるようになってても不思議でない。IDとパスワードさえあればスマホからもPCからも送金できる時代である。
 本人確認のメールくらいはくるだろうが。色々と確認のメールは大量にあるだろうし、
 大谷はお金にそこまで興味はないし本当にいちいち確認しないのだろう。確認しても自分の貯金が増えてるなぁーというくらいだろう。

 それでも、水原一平がギャンブル中毒になるまでは良かった。

 しかし、運が悪いことに違法ブックメーカーのマシュー・ボウヤーに目をつけられた。
 最初はちょっとした誘いからの軽いものだったのだろう。
 そこで、勝ったり、負けたりしながらギャンブルを楽しんでいたのだろ。

 だが、マシュー・ボウヤーは水原一平の後ろの大谷翔平の金を見ていた。

 水原一平がギャンブルで負けまくって自身で払えない負債を溜め込んだら肩代わりするなりなんなりするだろうと。
 しかし、水原一平の中では大谷の性格上肩代わりするようなことはしないと分かっていた。
 野球にストイックな大谷に違法ブックメーカで賭けて借金でやばいなんてことを知られたら普通に解雇されるとそれは水原は理解していた。

 正直に話すことが出来たら苦労はねぇー!!
 ばれたら人生が終わる! そう思いながらも仕事続けた。

 そして、平静な顔をしてMLB開幕戦まで迎えたわけだが。
 
 しかし、違法ギャンブル関連の事情に詳しいESPNが水原一平の違法賭博に関して嗅ぎ付けて強引に突撃取材してきたのである。
 数日後には貴方のやったことは白日の元にさらされることになりますよ。その前に極秘に独占インタビューさせてくださいと!
 とかなんとか言われたんだろう。

 水原一平は焦ったね。もう、ばれるのは時間の問題だ! さてどうする?

 とりあえず、このインタビューをどうにか凌がなければ! 
 大谷の金を勝手に使ったなんてことを言ったら即、窃盗の罪を通報されてしまうかもしれない!
 横領のことは隠してとりあえず、大谷が自分の借金を肩代わりしてくたことにしよう!
 翔平にもきちんと説明すれば、仕事で返すと頼み込めばどうにかしてくれるかもしれない!
 よし、とりあえずそういうことにしておこう!
 
 その翌日。
 大谷「そんなの始めて聞いたし、一平さん それは流石に無理です! ご自身のやったことを反省して事実のもとに公表してください」
 と、言われて、大谷の代理人に告訴されたのである。

 それが今回の顛末であると推測する。
 ギャンブル中毒患者は本当に自分の都合のよいストーリーを用意して最初に喋る。
 しかし、事実を突きつけられたら折れる。
 負けが確定するまでは希望を追って嘘をつき続けるのだが
 その希望がついえた時は素直になる。

 それがギャンブル中毒患者である。

 
 

 

 

やりたいことをやらないという概念の話~人は何故やりたいと思うことをやらないのか?

 やりたいことがないからやらないというのは分かる。やりたくないことをやらないというのも理解できる。しかし、やりたいことがあるのにやらないというのは長年の謎なわけでして。 個人的にはやりたいのにやらないという状況を常に自問自答したり、調べたりするのですよ。 でも、決定的な結論というか目から鱗みたいな答えはでないわけです。

 

 やりたいことをやらないというのはどういう状況か? 具体的な例を出して考えていきましょう。

 

 例えば、大谷選手に憧れて将来はメジャーリーグでホームラン王を俺もとりたい! という願望があったとしましょう。

 ようするにはその人は野球が上手くなりたいわけですが、でも野球の練習は面倒だし手間もかかるからやりたくない。けど、メジャーでホームラン王をとりたいという願望はあるわけです。こういう状態って大なり小なり人はもったりすると思うのです。

 

 ご飯いっぱい食べたけど太りたくないとか、勉強したくないけど勉強できるようになりたい! とか、筋肉つけたいけど筋トレしたくない! とかね。やりたいこと、達成したい目標があるのにもかかわらずその努力や行動はしたくない! あまつさえ努力を放棄することは日常的に行われています。

 

 何故やらないのか? 理由はいろいろとあるのですが。一番大きなところは努力したところで、それをこなしたところで成果がでるわけでない。すぐに、それを出来ないと分かる結果が返ってくるということ大きな要因でしょう。 一言でいえば、自分の望む結果が得られない努力を人は嫌がるし避けたいのです。 野球の練習をしても1日で上手くなるわけじゃないし、筋トレしても1日で筋肉が沢山つくわけでもない。なにをするにしても、すぐに望む結果は手に入らないということが多々あります。そして、その逆も然りです。簡単に自分の望む結果が返ってくるような素晴らしいこともあります。

 

 私が家のリモコンのスイッチを入れて電灯を灯すのも、エアコンのスイッチをいれて部屋の温度を快適にするのも、冷蔵庫で食品を冷やすのも約束された望む結果が返ってくるから繰り返しやるのです。スイッチをいれて電灯がつかずヒモを引っ張ると電灯がつくならスイッチをおさずヒモを引っ張るでしょう。

 

 ようするに人間は自分の望む結果がダイレクトに返ってくるものほど繰り返し行えるのだということが言えるのではないでしょうか? いや、そんなことない! 私は望む結果を得れなくても日々行動をしてなんでもやれる! みたいな特殊な人もいるかもしれませんが。どうやら私はそうではないようです。

 

 とりあえず、やりたいことをやらない原因ってのは色々と複合的な要素はあるとは思います。他にやらなければならないことがあってやれないとか。そもそもやりたいことでもなかった。向いていない。素質がないということもあるかもしれません。

 

 ですが、結局のところは やったら出来るという確実な認識をもてないことが一番の原因ではないかと思うのです。そして、裏を返せばですね。これをやったらできるという自分の中ので確信を得れれば人はたいていやりたいことはやれるようになるのではないか? そう思うのですよ。

 

 なので、目的を達成するためには。やりたいことをできるようになるためには計画が必要だとか、逆算して目標を設定してクリアしていくという手法が良いやり方だと沢山の人がおっしゃるわけです。

 

 やりたいことやるには?

 まず全体像を把握して、やらなければいけない内容を小分けして、それをどうやったら期日までにできるのか日割りする。これをするだけでやれる人は優秀です。ですが、それだけではできない! 全体像を把握して計画を立てても計画通りに物事を進めれない、計画通りに動けない! そういう人は沢山います。そういうときはどうすればいいのか? 答え簡単です。 計画に練りなおす! それ以外ないです。計画を実行できないのは全体像の把握がうまくいってない、計画が杜撰で穴だらけ、計画に無理があるからその立てた計画をやる気が起こらない! そこに問題があるのです。

 

 なので、やりたいことやりとげたければ、期日までにできなかった場合に計画を立て直すということが重要だと思うのです。そのために時間を余計に使ってしまうかもしれませんが、無理な計画で挫折してやらなくなる、諦めるということのほうがよっぽど無駄だし駄目なんじゃないかなと。なので、やりたいとこがやれないという状況はですね、結局のところ、計画を立て直すという概念が抜けて、無理な計画に挫折した人間が諦めてしまうという結果が残るということなんですよね。

 

 例えば、筋トレして筋肉つけたい! と思っても いきなり初日が腕立て連続300回やるなんて無茶な計画の実行はきついでしょうし挫折するでしょう。 そうならないために、腕立てを10回やる! これならできるでしょう。だけど10回やるのも面倒だと思う人は寝転がったらついでに10回やるとか、飯を食った後に10回やるとか、トイレの後に10回やるとか、なにかをやったらこれをやる! みたいな生活習慣とセットでやるとかやれる工夫を今度はしていくとよいでしょう。

 

 ですが、いきなり300回やる。という計画があった場合はそれはいきなり挫折して失敗するでしょう。ということはできるレベルに計画を練り直すという作業がやはり必要なわけです。月並みですが、計画が甘い、見積もりが甘い、これがやりたいことをやれない、やらないもっとも大きな要因だとやはり私は思うのです。

 

 なので、やりたいことをやりたい人は しっかりと計画を立てましょう!

 だけど、計画の立て方がわからない! 計画を立てるのが苦手だという人もいるでしょう。私もそうです。だけど、コツをつかめば簡単です。

 

 計画を立てるには 全体像を把握して、繰り返しなにをやれば、計画を達成できるかということを明確していく作業にすぎません。

 

 例えば、資格試験に合格したいのであれば

 まず、過去問でる範囲や問題を全てを把握してその数を割り出す。

 それをまずは一周するために必要な問題数を日割り計算して日割りで進める。

 そして日割りで順調にすすめれたらいいけど、無理がきたらその日割りを改める

 もっとできそうなら、数を増やす、できないなら数を減らす。

 そうやって過去問に何度も繰り返す。

 過去問を何度も何度も繰り返しやり続ける。

 解けない問題があれば解けるようになるまで何度も繰り返す。

 少し、解けるようになったら模擬試験を受けるか作成してやる。

 間違えた問題を抜き出して理解するまで繰り返す。

 そして、また過去問を説くことを繰り返す。

 それを何度も何度も繰り返しできる計画をたてて実行できれば大抵の資格試験には合格できます。ようはできるかできないかです。それができない人がいるから出来ない人がいるわけですが、やれるようになるにはやるしかない! という残酷な現実はどうしもうないです。パソコンみたいに知識を脳にインストールでできるような未来ならまた違うのでしょうが。現代ではまだ脳に知識やスキルはインストールできません。手動でやるしかありません繰り返し覚えこませるしかないのです。しょぼいのですがそれが現実です。基本は何でも同じ。計画を立ててそれを繰り返す。できるまでやる! やってもできないなら計画や見立てが甘いので計画を練り直す。そしてやる! その繰り返し、それしかないのです。

 

 しかし、同じことを繰り返す、計画的に繰り返す、やり続ける。言う易し行う難しいというのは事実です。ですが、やりたいことをやれないというほとんど人は計画が杜撰なことが多いのも事実。なので自分が本当にそれをやりたい。やれるようになりたいという人がいたらです。計画はきちんとたてたのか? その計画には無理がないか? 続けれるのか? 一度計画を見直すという基本に立ち返るのがよかろうよと思うのです。

 

 という、ありきたりなお話でした。

 なんでも、計画をきちんと立てれる人は優秀です。なので計画を必要で達成困難なことを成し遂げた人は計画をたてるのが非常に上手い人がおおいんじゃないかなーと思うのでした。

 

 でもね、

 それができれば苦労はしねぇー

 と言う気持ちもわかります!

 ですが、どうせ苦労するなら計画を立てることにまずは苦労してみてはいかがかなと思うのした。 エニウィ!

理想のヒモ生活(16) (角川コミックス・エース)

うーん 自殺はやはりよくないようなそうでもないような。

 漫画家が自殺した。

 原因は自分の漫画の原作通りにTVドラマが制作されなかったからである。原作者とTV局の間で契約はしっかりと原作通りにやると双方の合意があったにも関わらず、その契約は守られなかったからだ。

 

 そのことに原作者は憤慨して心を痛めて自死を選択した。

 

 TVドラマになるほどの漫画を生み出した漫画家は成功者といっていいだろう。

 漫画家の世界では単行本を出せるまでいくだけでもすごいことなんだ。

 ましてや、TVドラマの原作になるほどの人気作品を生み出す漫画家は歴史名を刻む偉大な漫画家と言っても過言ではない。

 

 それでも自殺した。

 

 自殺とは自分で自分を物理的に殺すことである。

 私も死にたいと思うことは多々あるが死ねない。

 どうやったら死ねるだろうかと死に方を色々と探して死ぬ方法を見出してはいるがそれでも実行する気はおきない。そんな気があって実行に移す気概があるならとっくにこんな文章は書かずに死んでるわけだが。

 

 自分の人生が他者より不幸か幸福かはよくわからないが、経済的に優れた人間でもない。自殺した漫画家は私なんかより経済的に優れ、知名度もあり、作品は世に認めれた選ばれし者である。そんな人でも自殺するのである。

 

 現代社会での価値観において、人間は健康でお金がそれなりにあれば大体幸せである人が多数派である。自殺した漫画さんの健康状態は存じ上げないが、経済的に困窮しているわけではないだろう。

 

 漫画家さんが自殺した今回の件を単純化すると、自分の生み出した作品が自分の意にそぐわないカタチで映像化した。そしてそうならないように事前に契約も結んだ。しかし、それを反故それた。その結果、漫画原作者は自殺した。

 

 そしたら、一気に大事になり世間の関心が向いた! である。

 自殺せずにいたら業界ではよくある。原作と映像化は別物。メディアの違いを理解しなさい皆の集! はいちゃんちゃん。 となっていただろう。

 

 そう考えると自殺という行為のすさまじさ、影響力はすごい。

 死んでも許せない、死ぬほど嫌、死んでも駄目ということを体言する一回だけ許された人間の特権行為といっていいだろう。そして、その影響は知名度や理由。世間の耳目を引くものであれば威力はとてつもなく高まる。人によって死んだ瞬間にその人の価値が最大限高まる人だっている。それほどに人の死というのはすごい。いや、有名な人間が死ぬ影響、現代のその伝達力、拡散力が根底にあり。それが手伝って今回大事となったのだが。

 

 私は個人的には人間は自分で死ぬと決めて死ぬのは大賛成である。生きる理由もなく理性的に自分はここまででいい。とくに生きてやりたいことがないし、生きる理由よりも死ぬ理由がうわまるなら死は救いだとすら思う価値観なので自殺した人、きちんと死ねた人を羨ましく思うことすらある。 それでも、自分の思いや、作った作品が他人よって改変されたりした。まあ、ようするに裏切られたから、裏切られたから嫌なこと言ってしまったから、他人を傷つけたから、それで辛いから自死を選択するというのはイマイチ共感できない。それは、本当に死ななければいけないほどの事なのか? 死ぬほどつらい出来事なんだろうか? いや、人それぞれの価値観においてそんなことを言い出したらキリはないわけで。

 

 それでも私は思う。

 死んだら終わりです。現世は生きてる人のためにある。

 自分の意に沿わない出来事があっても理不尽な目にあっても死んだ人のために用意されるのはお墓と言葉と思いだけです。それも死んでしまっては届くことはないっていいでしょう。科学的に死人に言葉や思いが届くと立証されていないのだから。

 

 なので、自分が不満に思うことがあるならばやはり自死するよりどうにか解決するように生きるのが健康な人間の生き方なのだろうと思うのです。

 

 人間は健康でお金があれば大抵は幸せになれるけども、健康が損なわれて死んでしまうというのは珍しいことではないと思います。今回の件は健康が瞬間的に著しく損なわれた結果なんだろうなと勝手に思うのです。そして、それはとても悲しい出来事であり多くの人が教訓するとことができる大きな出来事でもあっと思います。そういう意味で生きてる人類に対して多大な影響があり、今後、似たような事例が起こったさいに今回のような出来事も起こりえると人々の記憶に刻まれて理不尽な思いを受ける人が減るかもしれない。未来に起こる作家の不幸が減るという人類にとって大きな損害の芽を摘むことに寄与したかもしれない。だからといって作家の死が肯定されるというわけではないですが意味や意義をそこに見出す人は沢山いるでしょう。

 

 だからなんだと言うわけではないですが。

 自殺はやはりよくないようなそうでもないようなそんな気がするのです。

 

 以上

 

 

 

 

嫌がる女とセックスしたくなるのは何故なのか?

 

 

 貴方は嫌がる女性とセックスしたいですか? と問われたらどう返すだろうか。私はそうでもないがやぶさかではない! と答えるだろう。しかし、その本音は相手が嫌がっていようが抱けるでありYESである。

 

 相手の女性が嫌がってるし萎えるから無理という男性もいるだろう。逆に燃える男性もいるだろう。しかし、私は思う。

 

 男が嫌がる女性を抱けないのであれば人類はここまで増えなかっただろう。女性は基本的に男性を嫌がることで種を選別する。女性の嫌がりや拒絶を緩和するために男は苦労するのである。そして、相手の嫌がることに鈍感であることが必要とされた。相手が嫌がったりすることにイチイチ心を痛めていたら競争を勝ち抜けないのである。

 

 なので、相手が嫌がっていようとぐいぐい行くのが男の生殖本能なのだ。しかし、昨今は不同意性行為の取り締まりは厳しい。社会的圧力や権力、脅しや、暴力行為による性的交渉は犯罪である。女性視点でいけば望まない種はいらないし、自分が選んだ種で妊娠したいだろうから嫌がることで男性を拒絶してやりたくない相手とやらないですむわけでよいだろう。二毛作に励む女性も増えるだろう。それはそれで時代の仕組みを上手く利用した人間が時代に適応した結果なのである。

 

 しかし、嫌がる女性を妊娠させようとする気概の人間がいなくなるということは少子化のさらなる加速を促すだろう。嫌がる女性にアタックする人も減るだろう。嫌われてると感じたらすぐに消える人もいるだろう。それを人類の広がりをなくすような気がしないでもない。

 

 それが今の日本の流れであり通常なのである。それに対して反発もないけどもこの流れがすすむと性的な好みやプレイの内容も正しいとされる模範がどんどん加速していくんだろうと感じるわけです。

 

 それでも、繁殖できる人間は嫌がる女をなんとか攻略してセックスできる人間である。もしくは、相手からセックスしたいと申し込まれるような人間なのだろう。

 

 うーん無常である。

 

 

 

 

 

頂き女子というのは悪者なのか?

 

 

 頂き女子が捕まった。

 詐欺罪で捕まった。

 犯人の名前は りりちゃんである。

 

 罪状は 詐欺幇助と詐欺である。

 被害レベルは数億規模である。

 

 色恋を駆け引きに他人の財産を奪い取る

 それを我々の常識では詐欺と呼ばれ罪となるわけです。

 

どこからが詐欺罪になるのですか?
 
詐欺罪の成立要件 刑法第246条の定義を詳しく見てみると、詐欺罪とは、人を欺く行為により、その人を錯誤に陥らせて財物を交付させること、または自ら財産上の利益を得る、もしくは他人にこれを得させることと規定されています。
 
 人が人に嘘をつく。それはとてもよくある行為である。自分のため、他人のため、目的のために人は他人を騙すし、自分も騙すことだってある。嘘にも範囲があり程度があるので嘘というものをすなわち悪と断ずるのは難しい。
 
 殺し屋に追われてるいる友人を守るために殺し屋に嘘をついて殺し屋から友人を守るときだってあるだろう。でも、その殺し屋は友人を殺さないと自分が大変な目にあうので必死に探しているが周囲から嘘をつかれて友人を探し出せない。殺し屋の立場からすれば嘘をついて騙す人達が憎いだろう。しかし、友人も殺されるわけにはいかないである。
 
 さて、嘘というものは状況により、立場により善にも悪にもなる概念であり事象であるというのは皆も感覚的には理解しているとは思う。いや、そんなことはない、嘘は悪である、絶対悪であるという人もいるかもしれんがw
 
 日本の法律上犯罪である! ということはおいておき。
 
 色恋を取引材料として相手から金銭を得る行為は悪なのか?
 
 相手のことが好きだからなんだってしてあげたい!
 相手が喜ぶなら自分も嬉しい。
 それで相手が幸せになれるならお金だってあげちゃう!
 自分が相手を救ってあげれば相手だって自分のことを好きなってくれるだろう。
 
 色々な状況あるだろう。
 
 だけども、お金に困ってるわけじゃないけど、嘘をついて困ってるふりして相手からお金を得る。奪う行為はやはり度が過ぎる。なのでりりちゃんはNGなわけで犯罪者なわけです。
 
 だけど、実際に本当に困窮して困ってる人が助けて欲しくて相手から金銭を得るのは罪になるのだろうか? 相手のことを好きじゃないけどお金に困ってるから好きなふりをして本当に必要なお金を相手から引き出せた。でも、相手に感謝する心はあっても股は開かないし、好きにもならない。だけど救ってほしい! みたいな人間だっているだろう。
 
 そういう人も悪なのだろうか?
 義理や人情、助けてもらって恩ある人だからといって性的に好きになれるかどうかは別問題であるだろう。だけども、あちらはそれを期待して助けるわけです。なので、助けてもらっておいて、好きにならないなんてのはやはり取引不成立といっていいだろう。
 
 しかし、お金の絡む話は人と人の中を濃くする効果は確かにある。
 だけども、どちらか一方が得をするような取引はやはり駄目である。
 それは片方を搾取して不幸にして、自分だけ幸せになる行為である。
 
 目の前で飢え死にする人の前で豪華な飯を独り占めにして食う行為に等しい大罪だと私は思うね。
 
 なので、どう考えてもどのようのな方面から考えても 頂き女子というのは悪でありこの世から断罪しないといけないのである。
 
 
 以上
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

恋愛感情を利用して金銭を得ようとする女子は悪なんだろうか?

恋愛感情を利用して金銭を得ようとする女子は悪なんだろうか?

 
 男はその女の心と身体を欲していた。
 女はその男のお金を欲していた。
 
 故に、女は男にその気があると思わせ金銭を要求した。
 
 男はその女が自分を好きになってくれる可能性があがるならと、お金を与えるのに同意した。
 
 しかし、実際に女は男が持っているお金が欲しいだけである。お金を与えても好きになってもらえるなんてのは幻想である。
 
 幻想を相手に売りつけてお金を奪うのが悪というなら、フィクションを売りつけてお金を得るのも悪となるだろう。
 
 しかし、相手の気持ちを利用してお金を得る行為はリスクを伴う。そういう事をしておいて恨まれてしまい殺されるリスクすらある。
 
 しかし、色恋でお金を奪われる人間側はお金を奪われた事を惜しむわけでもなく、お金を使っても相手の心も身体も獲得できなかった事に心病むのである。
 
 しかし、頂き女子からすれば最初からお金を奪う目的で接触してくるわけです。女からすればだから何? と、知らぬ存ぜぬ、気にせず。更にはこいつから後どれくらお金を引っ張れるかという関心しかないわけです。
 
 故に、騙した側は騙される馬鹿が悪い!
 
 騙された側は騙した奴が悪い!
 
 となり、両者の溝は永遠に埋まらないのである。
 
 自分を騙さない異性に出会い、仲睦まじく人生を歩みたい人達は沢山いるだろう。
 
 しかし、男を騙し金を奪う女はそういう人種ではないのである。故に頂き女子という輩は悪と私は断じたい。
 
 世の孤独な恋愛弱者男性を食い物にするカスな女はこの世からさっさと退場するか悔い改めて欲しいものである。
 
 

迷惑動画とかキチガイ動画とか馬鹿動画をついつい見てしまう理由

迷惑動画をUPする人、キチガイ動画をUPする人ってのは結論は馬鹿だからUPするんでしょって結論で良いかなと思う私です。

 

 でも、それを見る側の気持ち。心理が良く分からないのでそれを考えたいなと思うのです。現にツイッターやらユーチューブやTiktokやら毎日のように迷惑でキチガイでお馬鹿な動画は散見されます。そして、私も少なからずそれを見てしまっています。

 

 迷惑な動画が不愉快だと思うならみなければいい、キチガイな動画が嫌いならみなければよい、馬鹿な動画が許せないなら見なければ良い。というならば、見たから不愉快になるし、見たから嫌いになるし、見たから馬鹿だと思うという理屈が通るので、次回からその動画をみなければ良いわけなんですが。

 

 実際は、繰り返し、違う迷惑動画やキチガイ動画を私は見るわけですよ。検索してわざわざ見るわけではないですが、ツイッターのタイムラインにあったら見るし、SNSで拡散されてるリンクがあれば、わざわざ踏んでみにいって不愉快な気持ちになるわけです。

 

 そんで、見に行って

 迷惑動画を見て「キチガイやなぁー」とか「馬鹿だな!」とか思いはせるわけですよ! これはあれか? 踊る阿呆にみる阿呆! 同じアホだけど踊りには参加しないみたいな感じ? ようするに、見てる側も馬鹿だから見るのか?

 

 いやいや、馬鹿じゃないから、同じような行動をとらずに見て馬鹿だなと思うわけで、そういうわけじゃなかろう。では、何故、馬鹿動画を見るのか? 

 

 そういった動画を見て思う感情は、「あり得ん!」とか「気持ち悪い」とか「こいうおかしな奴もいるのだな」というのがほとんどだ。

 

 そして、そういう感想を抱きたいと自分が思ってるからこそ、そういう動画を見るわけですよ。つまり、日常の中で退屈だけど安全圏から、馬鹿な人の馬鹿な行動を見て「気持ち悪い、死ね、カス!」とか思いたいわけですよ。

 

 じゃあ、日常から迷惑な人間や馬鹿な人間を死ね死ねと思っているかというとそうでもないわけで、自分にとって不利益でないならどうでもいいわけで、相手にしないわけすが、迷惑な動画は見てついつい断罪したくなるわけだ。

 

 つまり、変なことしてる迷惑な存在や馬鹿に対しては攻撃的なことを思っても罪悪感も抱かないでいいし、自分の感じる感情は正義であるという感覚を得たいというところがあるのではないかと。

 

 人間の本能的部分であるところの他者を見下したい、見下して自分の優位を確定したい欲求。そういう部分が刺激されて快楽に感じてるだろうなと思うわけです。

 

 人は結局のところ自分とは関わりのない愚かな人や不幸な人を見て自分じゃなくなて良かった。私は今日も安全で普通で素敵な一日を過ごせている。良かった! 良かった! ハッピーみたいな気持ちになりたいのだろうと。

 

 結論を言えば、人の不幸は蜜の味。他人の馬鹿を馬鹿にするのは楽しい、悪い奴に人権はないので攻撃してもいい! みたいな人間のダークな欲求を満たせるがために、迷惑な動画や、キチガイ動画、馬鹿動画は今日も再生されるのである。

 

 だからといって、そういう馬鹿共が馬鹿な動画をUPする免罪符にはならないが、需要は常に存在するということははっきりしているのでこれからも、よりエレガントでお馬鹿でカスでキチガイな動画はUPされ続けて視聴されるのだろう。

 

 愚かなUP者ありがとう! 私は今日も元気です!

 という、言葉を持って本日は締めさせてもらいます!

 

 ではでは! 2023年 8月20日

子供を作らない、育てないと決めた人生なら自死するまでの人生設計をするべきだろう

 人生は死ぬ迄続くリアルなゲームである。だけど必ず終わりのあるゲームです。

 死なない人間はいない。いやいや不老不死の研究は進んでる、寿命も延びてる。昔は治らなかった病気も治るようになった。老化抑制の遺伝子も見つかった。そもそも老化というのを病気だと捉えて治療できるように医療は進歩するから死なない人間、不老不死になる人間が誕生するかもしれない。そうなれば話は変わってくるでしょうが。とりあえず、人は死ぬ。100年も生きれば基本は死んでいる。そういうことが前提で話をしましょう。

 

 この世に生を受けて、子供から大人になり自立する。そして次世代への生産に成功こした固体はですね。自分の遺伝子を受け継いだ子供の成長、孫の成長を楽しみに生きていく。それだけで人生は豊かである。なので、死ぬ迄頑張っていきる意味もあるなと思うのです。まあ、それいいとして。

 

 じゃあ、子供を作らない固体としてなってしまった場合である。あるのは、食欲と娯楽の追及、趣味の探求等に人生を費やすだけになってしまった人。生きて飯を食ってトイレして寝て、だらだらとするだけの人達はどう生きるのが正解かということを最近思うのですよ。 それこそ死ぬ迄生きるだけじゃね? って話ですけどね。まあ、でも生きる意味もない残りの人生は設計するのはなんと不毛なんだろうかと思うわけです。

 

 それならさっさと死んでしまえばよいわけで自刃待ったなしです。しかし、お金もあって身体も健康で飯も旨いなら、死んでしまうのはいささかもったいないわけです。

 

 もったないから、死ぬのはやめとこうってなるのが、まだ健康な人の思考でしょう。

 しかし、何時までも健康なわけでもなく。生きがいもない、子供いない、伴侶もいない。生きる意味もたいして見出せないのであればさっさと終わるのもいいかもしれない。そう悩む人もいると思う、それは私です。

 

 なので、自分が死ぬの人生設計をするべきだなぁーと思うのです。

 ようするに、何時死ぬのか! そういうスケジュールを立ててそれに向かって進むという人生プランもありなんではないかと思うのです。

 

 なので、苦しますずに自死できる手段を用意しておく必要があると私は思うのです。

 なので、日本に安楽死施設が一日も早くできるようになってほしいなぁーとここ最近は常に思うのでした。

 

 2023年5月7日