努力と根性という言葉に感動を覚えることが多い私です。
というわけで今日は努力に関して考えていきたい。
努力や根性のみならず、熱血とか愛とか友情とかも大好きな私なのですが、若い時にとあるサッカー雑誌で「根性を科学する!」っていう連載コラムを熟読していた時期があったんですね。
「根性を科学する!」って連載コラムはスポーツ選手にとって根性、ド根性はもっとも大事なものであり、超一流の選手は超一流の根性が備わっているという仮説を立てて、そこから色々なスポーツ選手の根性話を例題に話が紹介されていき、根性論を展開するコラムだったんです。
僕はその時は中学生くらいだったかな。 そのコラムを読んで納得出来る部分もあったり、なかったりと色々と思うところができたりと言ったところでした。
その中で今でも根強く記憶に残っている内容を今日は紹介します。
前置き長くてすいません!
根性という要素は鍛えることが出来る!
性格の根子を鍛えることが出来るとは何事だと! っと、当時は思った。
しかし、内容はいたってシンプル。
過酷な環境に身を置いたり、過酷なトレーニングを己に課すことで根性は鍛えあがるのであるというような話でしかなかった。
科学じゃねーーーよ!
っと、思いっきり突っ込みを入れたくなったのは言うまでもない。
まあ、補足として色々な安全面の工夫の仕方やなんやらの紹介もあったんですが、とりあえず、ハードなトレーニングをするしかない! という大筋は連載最後まで変わることがなかった。
しかし、ハードトレーニングは勿論ながらやばい!
これが結構な問題である。
ハードトレーニングは過酷な環境に耐えれずに精神が病んでしまったり、それがトラウマになるリスクもあるし、過酷なトレーニングのせいで身体を壊すことだってあるので注意は必要であるが、それでも、なんでも、常人なら精神が崩壊するほどに、身体が壊れる程に追い込みそれに耐えうる精神と肉体を持つものだけが超一流と呼ばれる存在になれるとそのコラムでは謳っていた。
なるほどなーと思いながらも、無茶いうなよと心の中で叫んだ記憶がある。
だけども、この無茶ってのが味噌である。
無茶っての言うのはリスクなんですよね。
要するにどれだけリスクをおかせるか? そして、自分がおかせるリスクの限界点ってのを知って、それを伸ばすには、やはり無茶しなければ得ることができない!
無茶をして、無茶をして、限界を超えてもなお無茶をして、それに耐えうるものだけが最高レベルの根性を得れるというわけだ。
でも、そうなってくるとだ!
それに耐えれないパンピーは、ほどほどの努力で我慢してほどほどの根性で生きていけばいいとかそうなりかねない。
でも、思うんです。
無茶な努力に値するほどに見合うほどに思いれのあるものが私にはあるのだろうか?
ようするに無茶に見合う対価のビジョンが必要なんですが、なかなか見合うものなんてない。
でも、無茶なこと出来る人間はいる。
それは馬鹿な人間である。
馬鹿な人間は損得勘定が下手な人である。
だからこそ無茶が出来るし、ビジョンがなくても愚直にすすめるのである。
というわけで、根性のレベルが高い人は相対的に馬鹿である可能性が高い。
しかし、この馬鹿というのは馬鹿力の出せる馬鹿であり、侮れる類の馬鹿でない!
だから思う、根性という幻の宝石を手に入れたかったら馬鹿になるべきである。
もののけ姫に出てくる ジコ坊も言ってたよ!
「いや参った参った。馬鹿には勝てん」
理屈や常識を超えた結果を出そうと思うとどうしても馬鹿にならんといかん、でも馬鹿になってる状態を継続するには根性が必要である。
根性を欲するならば馬鹿になるべきなんだろう。
馬鹿になる覚悟が出来た人間は強い。
だけども人には知性がある。
だから馬鹿になんてなれない人が多い。
知性を振り切り、馬鹿になれる人はわずかである。
なので、馬鹿な人ほど根性がある!
そういう考えに至りましたとさ!
以上!