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ねここねの思考手記 サブカルミラクルの章

主にアニメ系 漫画系 らのべ系のサブカル系が中心です

差別と区別をRPGに例えるとレベルと能力に相当すると思う




 区別と差別ってのは個人的にRPGに例えると レベルと能力に相当すると思う。

 というコトで今日はそういった方面がテーマの話です。

 RPGのキャラでレベルは高いけれど、能力はいまいちのキャラとかレベルは低いけど能力は高いキャラっているでしょ。 でもレベルが高いキャラのほうが割合的に能力が高いコトの方が多かったりする。

 だから、RPGを進めていくには能力の高いキャラを使用して行くほうが効率的に進めるワケなんだよね。

 でも、ゲームの中のルールでレベル20以上しか駄目だとか縛りがあったりする。そういう時はレベルが低いけど能力の高いキャラは使えない、レベルが高いけど能力の低いキャラを使用する必要性が出来たりするワケです。

 しかし、ゲームをするプレイヤーにとって何の縛りもない状況でプレイするなら能力の高いキャラを選ぶでしょう。

 これは能力差別というやつに相当する。

 レベルは高いけど能力が低いキャラを必要とする場合は仕方なくそいつを使うコトになるでしょう。

 これをレベル区別だというコトに相当する。
 
 そして、これを現実社会に当て込むとだ。

 超一流高校・大学・企業に所属したり、大きな権威的立場にいる人間ほどレベルが高いというコトになる。 勿論レベルが高いだけあって能力が高い可能性も高いのかもしれない。

 パンピー高校・パンピー大学。パンピー企業に所属している人間はレベルが低いとされる。そして、レベルが低いというコトは能力も低いと思われるコトが多かったりもする。

 しかし、実際の能力差はレベルが決めるのではない。ましてレベルUPの恩恵で能力が上がったとしても、人間の能力は時間とともに上下する。だからレベルは絶対的なモノにはなりえないし、能力の現状維持も難しい。

 ここに面白い実験がある。

 芸術絵画展を開催したとする。 その絵画展に展示する作品は同じ作品とする。

 そして、1回目の芸術絵画展に、権威的な名前を載せる。

 すると、その芸術絵画展の評判は高くなる。

 2回目の芸術絵画展は権威的な名前を乗せず、無名な名前を載せる。
 
 今度は、2回目の芸術絵画展の評判は低くなる。

 
 何故こんなコトが起こるのでしょうか?

 まったく同じモノを展示したはずなのに?

 これは、区別して差別する人がその時代とその状況に多くみられる傾向だと私は思ったりする。

 もしも、区別して差別する人と差別して区別する人の割合が同じくらいなら、きっとその芸術絵画展の評価は変わらないモノになるだろう。

 次に権威的な人の名前を載せて、無名の画家の一般的な作品を展示する。

 そして、その後に無名な人間の名前を載せて、超一流の画家の作品を展示する。

 そうした時に、今度はどういう評価が出るだろうか?

 権威的な名前を載せた 無名な一般作品に集まるのは、区別して差別する人間だろうし、無名な名前で展示した作品に集まるのは、差別して区別する人だろう。

 
 これはほんの一例に過ぎないが、その他に人種や国籍、経歴等で区別して差別的な評価したり、その能力や実力で差別して区別するコトは日常ではよくあることだ。

 そして、その割合は人それぞれであったりする。

 時には、区別して差別する状況もあるだろうし、差別して区別する場合もあるだろう。

 だが、時代や状況、多くの人が望まない差別や区別を繰り返すと、それが歪みとなって恐ろしいイデオロギーとなり、時代は強引な手段でもって変革したりするから、この区別と差別には慎重な調整が必要である。

 能力で人を差別して区別する能力主義が良いのか? それとも国籍、人種、経歴に応じて区別して差別する権威主義が良いのか?

 それは、その時代やその状況、その当事者達によって望まれるモノは違ってくるのだけれど、その場にそぐわない区別や差別は多くの人を不幸にするし、差別も区別もないのならそれはそれで、何が良いのか悪いのかも判断するコトが難しくなるだろう。

 だけど、眼前にいる人は区別して差別する割合が多い人なのか? 差別して区別する割合が多いのか? 自分はどういう割合なのか? それくらい知っておきたいような気がする。

 だけどそんなコトは、能力主義か? 権威主義か?

 貴方はどっちのほうが好みですか?

 というようなコトでしかないのが、差別や区別、区別や差別というコトなんかなーと。

 ただ、個人的には人間とその他の動物だけは区別して差別しておいた方が人間社会にとっては良い。

 人と猫は対等だーとか言う博愛精神が神がかってる人もいるかもしれないけれど、本当に対等なら、猫も人間の生活に合わせるべきだし、もしくは人間も猫に合わせるべきだし・・・・・・。

 でも、そんなの無理でしょ! だから人類は人間とその他を区別して差別してるんだから同じ人間同士なら能力で差別しておいた方が不満は生まれにくいかなーと思うけど、人間の嫉妬心はそんな能力差別も許さないところがあるから、その差別を埋めるために区別するコトも必要なんかなーとか思ったり・・・・・・。

 でも、区別して差別する、差別して区別するを意識するにせよ、無意識にせよ人間はやってしまうモノだから、出来るだけ相手が不快な区別、差別、は行わいように心がけたいなー。


 まあ、レベルが高いというのも一つの能力だとか言う見方も出来るので正直なんともいえないなーとか思ったりするのだけど、僕の中の区別と差別の違いは RGPで言えば レベルと能力みたいです。

 そして、世界における人類の歴史と現状を考えてみると、この権威主義者達と能力主義者達の骨肉の争いが中心なのであろうという答えが導き出される。

 権威主義層は能力主義層を支配下におきたいし、能力主義層は権威主義層から権威を奪いたい。まあ、どちらかと言えば、能力主義層が権威を手に入れて権威主義層に入りたいというのが実情であり、権威主義層はそれは認められないといった感じだろうか?

 まあ、それは人それぞ事情やらなんやら色々あるので色々だろう。そして、これに割って入る第三の勢力があったりもする。

 それが、弱者救済主義者と呼ばれる連中だ。

 この、弱者救済主義者は表面的には貧困撲滅、世界平和、安定希望とか中層、もくは下流の人々に希望を与えるような言ばかりするが、なんのコトはない。 権威主義層や能力主義層の中で争い疲れたモノ達が集まるエセ集団ばかりだったりする。勿論、本当に心優し人達もいるのだが、少数だし利用されてたりするから笑えない集まりだと思ったりする。

 それに人の社会は弱者すら権威主義能力主義に洗脳されていて、そのおかげで秩序というモノを得ているようなシステムとなっている。

 その中でいくら弱者救済と叫んだところでそれはビジネスとして利用される程度でしかないだろう。 それとて結構な経済効果を生むのだから侮ったモノではないので利用できるなら利用しようとする人もいるだろうし、それで救われたと感じる人もいるのも事実だろう。

 そんな、人類社会に生きていて貴方は、どの勢力にも加担しないように生きるコトは出来るのだろうか?

 その可能性を信じてアナーキストになったとしても、どこかで、どの勢力かに組みするコトになるだろう。

 それならそれで良いとも思うし、悪いコトじゃない。

 そして、この権威主義能力主義によって上下という存在が生まれそこに一般市民達は秩序というルールを与えられる。

 その秩序に喜び現状で満足する方法探す人達、与えられた秩序ルールが気に入らないといって改正を求める、過激派、穏健派、秩序を管理する側に入ろうと努力したり利用されたりする人達。そして、全て諦め隠棲したり自決する道を選択する人達とか、まあ色々いるワケですな。

 もしも、本気で現状世界を支配している秩序ルールを壊したいなら、権威と能力を必要としない万人が認め敬うような共通する新しい考え方と生活を安定供給できる様々な科学技術の発展が必要になるだろう。

 しかし、人の自由意思を考え方で縛るのは難しいし、更に科学技術がどんなに発達して人が何一つやらなくても機械がやってくれる世がきたとしたらそれは機械による支配であると予測されるし、それはそれで何とも嫌だなーと思うワケでして、結局は今のまま、世界が廻る方が現状生きてる人には幸福を得れるチャンスは多いのかなーとかなんとか思ったり、思わなかったりするのですね。

 他者に支配されることのない、秩序なき自由と機械に依存して飼われるような世界が人類のユートピア足るのだろうか?

 多分、そこはデストピアであろうと思ったり、もしかしたら今より暮らしやすい世の中なんかなーとか思ったりするけど、そんな時代はこないかもしれないし、きたとしても僕は生きていないだろう。

 そんな、僕だからこそ妄想や二次元の世界に入り浸って生きてるのかなーとか思ったりする。

 ただ僕が問題に感じるのは、知らず知らずのうちに、もしくは強いられてどれかの勢力に組み込まれ、利用され強制されて気がついたら年をとって老人となって終わる時である。

 そうなった時、自分が死ぬ間際になっても、何のために生きていたのかすら分からないのではないかと思ったりする。

 まあ、何のために生きるなんてのは誰にも分からないモノだから、それこそ本当の結果は死ぬまで分かんないモノだけど、出来ればこのために生きていたという証をもって最後の時を迎えるような努力はしていきたいなー。

 ただ言えるのは最後、今際のきわで「にゃんぱすー」とか言ってくたばるのは避けたいところだなーと思う今日この頃です。

 いや、むしろそれが本望なのかも・・・・・・、いや、でも避けたい。

 だって、なんかカッコ悪いじゃん。

 個人的に差別も区別も必要であり無くならないモノだからその順序と割合の構成を時代と状況に合わせて調整するコトが人類社会において現実的なアプローチであるような気がしないでもない。

 でも、その調整役はいつも一握りの権力者なので平等とか公平という概念は幻想でしかないのだ!

 

 結局どのような状況にいても自分の持っている武器や能力を使用して頑張るしかないので、持ってないものや、足りないものを理由に頑張らないのは理由にならないと一刀両断されてしまう。

 

 差別と区別の概念がある限り人は一生それに支配される。 だから平等主義や公平主義なんて言うポジショントークを掲げる人間が僕は苦手なのだ。


 貴方はどう思いますか?

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