こういうのを読むと改めて色々思うところが出来る。
作者が作品を作り上げる。そこには、色々な苦労があり、エネルギーを必要とする。良い物を作るために、心血を注ぎ、己の全能力を使って作品を仕上げることも珍しくない創作の世界。
そんな、苦労を乗り越えて、作者は世に作品を送り出す、だがしかし、その作品の評価と作者の評価を同じに捉えてはいけない。
では、何故いけないのか? それは、作品は物であり、作者は人間だからである。
これで、理解しろと言うのは無理があるようなので、じっくりと読み進めて欲しいと思う。
例えば、親が犯罪者だとする、その子供は犯罪者か? 確かに、犯罪者の子供には犯罪者の子供だという先入観が働くだろう。だが子供が犯罪者であるかどうかは別問題である。子供は犯罪者ではないのである。そして犯罪者である親はその罪を償うことを余儀なくされるだろう。
では、作者はつまらない作品を作りました。作者はつまらない人間なのだろうか? そのつまらない作品をつくった作者はつまらない作品をつくっただけであって、その人物がつまらない人間かどうかは別問題だといえる。だが作品がつまらない事実は消えないのである。
つまらない、作品を作った作者につまらない人間だという先入観を持つ事自体は作品を作った作者の責ではあると思う。だが作品を作った作者本人はつまらない人間と決定ずけるものではないのである。
もっというなら、ドラマに出てる俳優が演じる役と、その役者は無関係である。役がらで、悪魔の役を演じてはいても、役者は実際には悪魔ではないはずだ。 悪魔の役をやっていたというのは事実だが、悪魔の役を演じていたから悪い人だと言ったりするのは、せいぜい小学生の子供くらいではないだろうか?
素晴らしい作品を作った、作者は素晴らしい人だ、尊敬に値すると思う気持ちを持ちたいのは分かる、だがそれは同時に、つまらない作品を作った作者を卑下してもいいということがまかり通ってしまうといえないだろうか?
面白い時だけ、作者を尊敬し、つまらない時は、そっとしておいてあげる。こういう分け方をする人もいるかもしれない。
だが、こいう分け方をするということは、自分の好きなことだけ、嫌いなもの、苦手なものを避けて通る考え方に似ている。
食事で言えば、肉ばかり食って野菜を食わないようなものだ。それでは栄養は偏り体を壊す。
面白い時だけ、作者を尊敬し、つまらない時はそっとしておいてあげるということは、結局その本人が偏った思考をもち、精神に異常をきたし易い人間になるのではないか?
まあ、それは言い過ぎとしても、あまり良い状態とはお世辞にも言えない。いいんだよ俺は俺のやり方でと言うのも自由だが、個人的にはやっぱりお勧めできない。
でも、まえ読んだ作者の作品が良かったから、作者の別の作品を読む行為は作者を評価してるからじゃないの? という考えもあるが、これも、作者の作品が良かったという作品に対しての先入観であり、作者に対する期待という名の先入観だと言える 作者の別の作品に興味を抱く要因の一つではあるが、作者自身を良いという事とは無関係なのである。
作者と作品の評価を同じ価値で見る人間は、つまるところ作者を人間扱いしていないと言ってもいいと思う。
何故なら作者にとって作品とは自分の身を飾る飾りに過ぎないからである。作品と作者の評価を混同する人間は きっと人を好きになる基準も、相手が可愛いとか、お金持ちだとか、自分にとって都合が良いとか、そんな理由で人と付き合うのだろう。そんな人は生涯、相手の心を好きになるということが出来ないのだと思う。
だからこそ、作品に対する評価と、作者の評価は分ける必要があるのである。じゃあ、作者の評価どうやってやればいいの? 作品以外から知りえないのなら、そこから判断するしかないじゃん! と 言う人もいるかもしれない。
作者の作品が本当に気に入って、作者の事が気になるなら、作者のことを自分で調べればいいことではないか、作者には迷惑かもしれないが、直にあってその人と話してみるのがその人を知る上では一番良い方法だろう。
だからこそ、作品と作者は分けて考えなければならない。フィクションと現実の存在を分けて考えるのと同じである。
だからこそ、私は何度でも言う、作者と作品の評価は別にしなければならない。
金を払って作者の作品を買ってるんだから、作品はおろか、作者まで攻撃していいと思っている人間はとどのつまり、金を払えば、どんなこともしてもいいと思っている感違いをした、社会に迷惑な人間に他ならないと私は思う。
だからこそ評価するのは作品までであることを切に思います。
うーん。文章は難しい、もっと短く、まとめる必要があるのだろうか?
言いたいことが正確に伝わらない、歯がゆさでいっぱいだ。
作者の作った本を、あなたはその手にとって、目の前にいる作者に、作品はつまらない、だからあなたも、つまらない人間であると言ってあげる行為を肯定する気なのですか?
相手の、着ている服をみて、その人が素晴らしに服を着ているだけで、その本人が鼻くそホッじって食べていても、素晴らしい服をきている人だから、OKとか言う気なのだろうか?
相手がお金持ちだから、お金を持ってる人はエライ、だから、お金持ちの子供がその背景にあぐらを書いて、なにも努力をしない人間だとしても、その人間を認めてしまうのか?
作者の作った本を、すごく気に入って、作者に対して、神のごとく信奉する読者は、作者が犯罪を犯しても、庇う気でいるのだろうか? ましてや、素晴らしい作品を読ませてくれた礼だと言って、それを許す気なのだろうか?
今一度、胸に手を当てて考えて欲しい。
これが、私の論理の飛躍なのか? 常識だと思うのだが、これが常識じゃないなら、私は世間とズレているのだと思う。
作者と作品の評価を別にしなければならない! だが作者に文句を言うならみるなという権利あり得ない。
このようなことの重要性を、延々と散々述べていたけれども、そんな事は作者と作者をよく知る人物、またはそれを理解して欲しい人達に知ってもらえれば、十分なのかもしれない。
それを、読者に求めるのは酷なのかもしれない。そんなことで読者を限定し、閉じてしまうようのは世界を狭くする行為に他ならないからだ。
距離が離れれば、離れただけ、物事を正確に掴むことはより困難になり、そして、その必然性も失われていく。
つまり、作者は作品という自分の一つの一面を表す媒体を作りだした。
そこから先は、それを受け取った当事者達の領分である。そして、作者は、どのようなことを言われようが、自分がそうではないと知っていればいいだけなのである。
そして、どうしても理解してもらい人がいるなら、その人と直接対話するなり、自分とはこいう人間であり、作品の中ではこう語っているけれど、実際にはこう考えていたりしますと伝えれば良い。
分かってもらえる人には分かってもらう。分からないという人には分かってもらわなくても、なんの問題もない。
ただ何かを発信する人は
「文句言うなら見るな!」
こういう恥知らずなことを言ってはいけない。
誰かが表現した創作物を見て文句を言うってのは当たり前のことである。
「文句を言うなら見るな!」
そうは言われも!
「見たことで不快だから文句が出る!」
こういう当たり前のことから逃げる人が結構いる。
個人的に作品から作者の人格を批判することが可能ならば自分の作品の文句を言われて出た行動が「文句を言うならみるな」のような場合にのみ適用できると私は考える。
だからこそ、作者と作品の人格は別にして評価しないといけない。
以上