ねここねの思考手記

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やりたいことをやらないという概念の話~人は何故やりたいと思うことをやらないのか?

 やりたいことがないからやらないというのは分かる。やりたくないことをやらないというのも理解できる。しかし、やりたいことがあるのにやらないというのは長年の謎なわけでして。 個人的にはやりたいのにやらないという状況を常に自問自答したり、調べたりするのですよ。 でも、決定的な結論というか目から鱗みたいな答えはでないわけです。

 

 やりたいことをやらないというのはどういう状況か? 具体的な例を出して考えていきましょう。

 

 例えば、大谷選手に憧れて将来はメジャーリーグでホームラン王を俺もとりたい! という願望があったとしましょう。

 ようするにはその人は野球が上手くなりたいわけですが、でも野球の練習は面倒だし手間もかかるからやりたくない。けど、メジャーでホームラン王をとりたいという願望はあるわけです。こういう状態って大なり小なり人はもったりすると思うのです。

 

 ご飯いっぱい食べたけど太りたくないとか、勉強したくないけど勉強できるようになりたい! とか、筋肉つけたいけど筋トレしたくない! とかね。やりたいこと、達成したい目標があるのにもかかわらずその努力や行動はしたくない! あまつさえ努力を放棄することは日常的に行われています。

 

 何故やらないのか? 理由はいろいろとあるのですが。一番大きなところは努力したところで、それをこなしたところで成果がでるわけでない。すぐに、それを出来ないと分かる結果が返ってくるということ大きな要因でしょう。 一言でいえば、自分の望む結果が得られない努力を人は嫌がるし避けたいのです。 野球の練習をしても1日で上手くなるわけじゃないし、筋トレしても1日で筋肉が沢山つくわけでもない。なにをするにしても、すぐに望む結果は手に入らないということが多々あります。そして、その逆も然りです。簡単に自分の望む結果が返ってくるような素晴らしいこともあります。

 

 私が家のリモコンのスイッチを入れて電灯を灯すのも、エアコンのスイッチをいれて部屋の温度を快適にするのも、冷蔵庫で食品を冷やすのも約束された望む結果が返ってくるから繰り返しやるのです。スイッチをいれて電灯がつかずヒモを引っ張ると電灯がつくならスイッチをおさずヒモを引っ張るでしょう。

 

 ようするに人間は自分の望む結果がダイレクトに返ってくるものほど繰り返し行えるのだということが言えるのではないでしょうか? いや、そんなことない! 私は望む結果を得れなくても日々行動をしてなんでもやれる! みたいな特殊な人もいるかもしれませんが。どうやら私はそうではないようです。

 

 とりあえず、やりたいことをやらない原因ってのは色々と複合的な要素はあるとは思います。他にやらなければならないことがあってやれないとか。そもそもやりたいことでもなかった。向いていない。素質がないということもあるかもしれません。

 

 ですが、結局のところは やったら出来るという確実な認識をもてないことが一番の原因ではないかと思うのです。そして、裏を返せばですね。これをやったらできるという自分の中ので確信を得れれば人はたいていやりたいことはやれるようになるのではないか? そう思うのですよ。

 

 なので、目的を達成するためには。やりたいことをできるようになるためには計画が必要だとか、逆算して目標を設定してクリアしていくという手法が良いやり方だと沢山の人がおっしゃるわけです。

 

 やりたいことやるには?

 まず全体像を把握して、やらなければいけない内容を小分けして、それをどうやったら期日までにできるのか日割りする。これをするだけでやれる人は優秀です。ですが、それだけではできない! 全体像を把握して計画を立てても計画通りに物事を進めれない、計画通りに動けない! そういう人は沢山います。そういうときはどうすればいいのか? 答え簡単です。 計画に練りなおす! それ以外ないです。計画を実行できないのは全体像の把握がうまくいってない、計画が杜撰で穴だらけ、計画に無理があるからその立てた計画をやる気が起こらない! そこに問題があるのです。

 

 なので、やりたいことやりとげたければ、期日までにできなかった場合に計画を立て直すということが重要だと思うのです。そのために時間を余計に使ってしまうかもしれませんが、無理な計画で挫折してやらなくなる、諦めるということのほうがよっぽど無駄だし駄目なんじゃないかなと。なので、やりたいとこがやれないという状況はですね、結局のところ、計画を立て直すという概念が抜けて、無理な計画に挫折した人間が諦めてしまうという結果が残るということなんですよね。

 

 例えば、筋トレして筋肉つけたい! と思っても いきなり初日が腕立て連続300回やるなんて無茶な計画の実行はきついでしょうし挫折するでしょう。 そうならないために、腕立てを10回やる! これならできるでしょう。だけど10回やるのも面倒だと思う人は寝転がったらついでに10回やるとか、飯を食った後に10回やるとか、トイレの後に10回やるとか、なにかをやったらこれをやる! みたいな生活習慣とセットでやるとかやれる工夫を今度はしていくとよいでしょう。

 

 ですが、いきなり300回やる。という計画があった場合はそれはいきなり挫折して失敗するでしょう。ということはできるレベルに計画を練り直すという作業がやはり必要なわけです。月並みですが、計画が甘い、見積もりが甘い、これがやりたいことをやれない、やらないもっとも大きな要因だとやはり私は思うのです。

 

 なので、やりたいことをやりたい人は しっかりと計画を立てましょう!

 だけど、計画の立て方がわからない! 計画を立てるのが苦手だという人もいるでしょう。私もそうです。だけど、コツをつかめば簡単です。

 

 計画を立てるには 全体像を把握して、繰り返しなにをやれば、計画を達成できるかということを明確していく作業にすぎません。

 

 例えば、資格試験に合格したいのであれば

 まず、過去問でる範囲や問題を全てを把握してその数を割り出す。

 それをまずは一周するために必要な問題数を日割り計算して日割りで進める。

 そして日割りで順調にすすめれたらいいけど、無理がきたらその日割りを改める

 もっとできそうなら、数を増やす、できないなら数を減らす。

 そうやって過去問に何度も繰り返す。

 過去問を何度も何度も繰り返しやり続ける。

 解けない問題があれば解けるようになるまで何度も繰り返す。

 少し、解けるようになったら模擬試験を受けるか作成してやる。

 間違えた問題を抜き出して理解するまで繰り返す。

 そして、また過去問を説くことを繰り返す。

 それを何度も何度も繰り返しできる計画をたてて実行できれば大抵の資格試験には合格できます。ようはできるかできないかです。それができない人がいるから出来ない人がいるわけですが、やれるようになるにはやるしかない! という残酷な現実はどうしもうないです。パソコンみたいに知識を脳にインストールでできるような未来ならまた違うのでしょうが。現代ではまだ脳に知識やスキルはインストールできません。手動でやるしかありません繰り返し覚えこませるしかないのです。しょぼいのですがそれが現実です。基本は何でも同じ。計画を立ててそれを繰り返す。できるまでやる! やってもできないなら計画や見立てが甘いので計画を練り直す。そしてやる! その繰り返し、それしかないのです。

 

 しかし、同じことを繰り返す、計画的に繰り返す、やり続ける。言う易し行う難しいというのは事実です。ですが、やりたいことをやれないというほとんど人は計画が杜撰なことが多いのも事実。なので自分が本当にそれをやりたい。やれるようになりたいという人がいたらです。計画はきちんとたてたのか? その計画には無理がないか? 続けれるのか? 一度計画を見直すという基本に立ち返るのがよかろうよと思うのです。

 

 という、ありきたりなお話でした。

 なんでも、計画をきちんと立てれる人は優秀です。なので計画を必要で達成困難なことを成し遂げた人は計画をたてるのが非常に上手い人がおおいんじゃないかなーと思うのでした。

 

 でもね、

 それができれば苦労はしねぇー

 と言う気持ちもわかります!

 ですが、どうせ苦労するなら計画を立てることにまずは苦労してみてはいかがかなと思うのした。 エニウィ!

理想のヒモ生活(16) (角川コミックス・エース)

うーん 自殺はやはりよくないようなそうでもないような。

 漫画家が自殺した。

 原因は自分の漫画の原作通りにTVドラマが制作されなかったからである。原作者とTV局の間で契約はしっかりと原作通りにやると双方の合意があったにも関わらず、その契約は守られなかったからだ。

 

 そのことに原作者は憤慨して心を痛めて自死を選択した。

 

 TVドラマになるほどの漫画を生み出した漫画家は成功者といっていいだろう。

 漫画家の世界では単行本を出せるまでいくだけでもすごいことなんだ。

 ましてや、TVドラマの原作になるほどの人気作品を生み出す漫画家は歴史名を刻む偉大な漫画家と言っても過言ではない。

 

 それでも自殺した。

 

 自殺とは自分で自分を物理的に殺すことである。

 私も死にたいと思うことは多々あるが死ねない。

 どうやったら死ねるだろうかと死に方を色々と探して死ぬ方法を見出してはいるがそれでも実行する気はおきない。そんな気があって実行に移す気概があるならとっくにこんな文章は書かずに死んでるわけだが。

 

 自分の人生が他者より不幸か幸福かはよくわからないが、経済的に優れた人間でもない。自殺した漫画家は私なんかより経済的に優れ、知名度もあり、作品は世に認めれた選ばれし者である。そんな人でも自殺するのである。

 

 現代社会での価値観において、人間は健康でお金がそれなりにあれば大体幸せである人が多数派である。自殺した漫画さんの健康状態は存じ上げないが、経済的に困窮しているわけではないだろう。

 

 漫画家さんが自殺した今回の件を単純化すると、自分の生み出した作品が自分の意にそぐわないカタチで映像化した。そしてそうならないように事前に契約も結んだ。しかし、それを反故それた。その結果、漫画原作者は自殺した。

 

 そしたら、一気に大事になり世間の関心が向いた! である。

 自殺せずにいたら業界ではよくある。原作と映像化は別物。メディアの違いを理解しなさい皆の集! はいちゃんちゃん。 となっていただろう。

 

 そう考えると自殺という行為のすさまじさ、影響力はすごい。

 死んでも許せない、死ぬほど嫌、死んでも駄目ということを体言する一回だけ許された人間の特権行為といっていいだろう。そして、その影響は知名度や理由。世間の耳目を引くものであれば威力はとてつもなく高まる。人によって死んだ瞬間にその人の価値が最大限高まる人だっている。それほどに人の死というのはすごい。いや、有名な人間が死ぬ影響、現代のその伝達力、拡散力が根底にあり。それが手伝って今回大事となったのだが。

 

 私は個人的には人間は自分で死ぬと決めて死ぬのは大賛成である。生きる理由もなく理性的に自分はここまででいい。とくに生きてやりたいことがないし、生きる理由よりも死ぬ理由がうわまるなら死は救いだとすら思う価値観なので自殺した人、きちんと死ねた人を羨ましく思うことすらある。 それでも、自分の思いや、作った作品が他人よって改変されたりした。まあ、ようするに裏切られたから、裏切られたから嫌なこと言ってしまったから、他人を傷つけたから、それで辛いから自死を選択するというのはイマイチ共感できない。それは、本当に死ななければいけないほどの事なのか? 死ぬほどつらい出来事なんだろうか? いや、人それぞれの価値観においてそんなことを言い出したらキリはないわけで。

 

 それでも私は思う。

 死んだら終わりです。現世は生きてる人のためにある。

 自分の意に沿わない出来事があっても理不尽な目にあっても死んだ人のために用意されるのはお墓と言葉と思いだけです。それも死んでしまっては届くことはないっていいでしょう。科学的に死人に言葉や思いが届くと立証されていないのだから。

 

 なので、自分が不満に思うことがあるならばやはり自死するよりどうにか解決するように生きるのが健康な人間の生き方なのだろうと思うのです。

 

 人間は健康でお金があれば大抵は幸せになれるけども、健康が損なわれて死んでしまうというのは珍しいことではないと思います。今回の件は健康が瞬間的に著しく損なわれた結果なんだろうなと勝手に思うのです。そして、それはとても悲しい出来事であり多くの人が教訓するとことができる大きな出来事でもあっと思います。そういう意味で生きてる人類に対して多大な影響があり、今後、似たような事例が起こったさいに今回のような出来事も起こりえると人々の記憶に刻まれて理不尽な思いを受ける人が減るかもしれない。未来に起こる作家の不幸が減るという人類にとって大きな損害の芽を摘むことに寄与したかもしれない。だからといって作家の死が肯定されるというわけではないですが意味や意義をそこに見出す人は沢山いるでしょう。

 

 だからなんだと言うわけではないですが。

 自殺はやはりよくないようなそうでもないようなそんな気がするのです。

 

 以上

 

 

 

 

嫌がる女とセックスしたくなるのは何故なのか?

 

 

 貴方は嫌がる女性とセックスしたいですか? と問われたらどう返すだろうか。私はそうでもないがやぶさかではない! と答えるだろう。しかし、その本音は相手が嫌がっていようが抱けるでありYESである。

 

 相手の女性が嫌がってるし萎えるから無理という男性もいるだろう。逆に燃える男性もいるだろう。しかし、私は思う。

 

 男が嫌がる女性を抱けないのであれば人類はここまで増えなかっただろう。女性は基本的に男性を嫌がることで種を選別する。女性の嫌がりや拒絶を緩和するために男は苦労するのである。そして、相手の嫌がることに鈍感であることが必要とされた。相手が嫌がったりすることにイチイチ心を痛めていたら競争を勝ち抜けないのである。

 

 なので、相手が嫌がっていようとぐいぐい行くのが男の生殖本能なのだ。しかし、昨今は不同意性行為の取り締まりは厳しい。社会的圧力や権力、脅しや、暴力行為による性的交渉は犯罪である。女性視点でいけば望まない種はいらないし、自分が選んだ種で妊娠したいだろうから嫌がることで男性を拒絶してやりたくない相手とやらないですむわけでよいだろう。二毛作に励む女性も増えるだろう。それはそれで時代の仕組みを上手く利用した人間が時代に適応した結果なのである。

 

 しかし、嫌がる女性を妊娠させようとする気概の人間がいなくなるということは少子化のさらなる加速を促すだろう。嫌がる女性にアタックする人も減るだろう。嫌われてると感じたらすぐに消える人もいるだろう。それを人類の広がりをなくすような気がしないでもない。

 

 それが今の日本の流れであり通常なのである。それに対して反発もないけどもこの流れがすすむと性的な好みやプレイの内容も正しいとされる模範がどんどん加速していくんだろうと感じるわけです。

 

 それでも、繁殖できる人間は嫌がる女をなんとか攻略してセックスできる人間である。もしくは、相手からセックスしたいと申し込まれるような人間なのだろう。

 

 うーん無常である。

 

 

 

 

 

頂き女子というのは悪者なのか?

 

 

 頂き女子が捕まった。

 詐欺罪で捕まった。

 犯人の名前は りりちゃんである。

 

 罪状は 詐欺幇助と詐欺である。

 被害レベルは数億規模である。

 

 色恋を駆け引きに他人の財産を奪い取る

 それを我々の常識では詐欺と呼ばれ罪となるわけです。

 

どこからが詐欺罪になるのですか?
 
詐欺罪の成立要件 刑法第246条の定義を詳しく見てみると、詐欺罪とは、人を欺く行為により、その人を錯誤に陥らせて財物を交付させること、または自ら財産上の利益を得る、もしくは他人にこれを得させることと規定されています。
 
 人が人に嘘をつく。それはとてもよくある行為である。自分のため、他人のため、目的のために人は他人を騙すし、自分も騙すことだってある。嘘にも範囲があり程度があるので嘘というものをすなわち悪と断ずるのは難しい。
 
 殺し屋に追われてるいる友人を守るために殺し屋に嘘をついて殺し屋から友人を守るときだってあるだろう。でも、その殺し屋は友人を殺さないと自分が大変な目にあうので必死に探しているが周囲から嘘をつかれて友人を探し出せない。殺し屋の立場からすれば嘘をついて騙す人達が憎いだろう。しかし、友人も殺されるわけにはいかないである。
 
 さて、嘘というものは状況により、立場により善にも悪にもなる概念であり事象であるというのは皆も感覚的には理解しているとは思う。いや、そんなことはない、嘘は悪である、絶対悪であるという人もいるかもしれんがw
 
 日本の法律上犯罪である! ということはおいておき。
 
 色恋を取引材料として相手から金銭を得る行為は悪なのか?
 
 相手のことが好きだからなんだってしてあげたい!
 相手が喜ぶなら自分も嬉しい。
 それで相手が幸せになれるならお金だってあげちゃう!
 自分が相手を救ってあげれば相手だって自分のことを好きなってくれるだろう。
 
 色々な状況あるだろう。
 
 だけども、お金に困ってるわけじゃないけど、嘘をついて困ってるふりして相手からお金を得る。奪う行為はやはり度が過ぎる。なのでりりちゃんはNGなわけで犯罪者なわけです。
 
 だけど、実際に本当に困窮して困ってる人が助けて欲しくて相手から金銭を得るのは罪になるのだろうか? 相手のことを好きじゃないけどお金に困ってるから好きなふりをして本当に必要なお金を相手から引き出せた。でも、相手に感謝する心はあっても股は開かないし、好きにもならない。だけど救ってほしい! みたいな人間だっているだろう。
 
 そういう人も悪なのだろうか?
 義理や人情、助けてもらって恩ある人だからといって性的に好きになれるかどうかは別問題であるだろう。だけども、あちらはそれを期待して助けるわけです。なので、助けてもらっておいて、好きにならないなんてのはやはり取引不成立といっていいだろう。
 
 しかし、お金の絡む話は人と人の中を濃くする効果は確かにある。
 だけども、どちらか一方が得をするような取引はやはり駄目である。
 それは片方を搾取して不幸にして、自分だけ幸せになる行為である。
 
 目の前で飢え死にする人の前で豪華な飯を独り占めにして食う行為に等しい大罪だと私は思うね。
 
 なので、どう考えてもどのようのな方面から考えても 頂き女子というのは悪でありこの世から断罪しないといけないのである。
 
 
 以上
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

恋愛感情を利用して金銭を得ようとする女子は悪なんだろうか?

恋愛感情を利用して金銭を得ようとする女子は悪なんだろうか?

 
 男はその女の心と身体を欲していた。
 女はその男のお金を欲していた。
 
 故に、女は男にその気があると思わせ金銭を要求した。
 
 男はその女が自分を好きになってくれる可能性があがるならと、お金を与えるのに同意した。
 
 しかし、実際に女は男が持っているお金が欲しいだけである。お金を与えても好きになってもらえるなんてのは幻想である。
 
 幻想を相手に売りつけてお金を奪うのが悪というなら、フィクションを売りつけてお金を得るのも悪となるだろう。
 
 しかし、相手の気持ちを利用してお金を得る行為はリスクを伴う。そういう事をしておいて恨まれてしまい殺されるリスクすらある。
 
 しかし、色恋でお金を奪われる人間側はお金を奪われた事を惜しむわけでもなく、お金を使っても相手の心も身体も獲得できなかった事に心病むのである。
 
 しかし、頂き女子からすれば最初からお金を奪う目的で接触してくるわけです。女からすればだから何? と、知らぬ存ぜぬ、気にせず。更にはこいつから後どれくらお金を引っ張れるかという関心しかないわけです。
 
 故に、騙した側は騙される馬鹿が悪い!
 
 騙された側は騙した奴が悪い!
 
 となり、両者の溝は永遠に埋まらないのである。
 
 自分を騙さない異性に出会い、仲睦まじく人生を歩みたい人達は沢山いるだろう。
 
 しかし、男を騙し金を奪う女はそういう人種ではないのである。故に頂き女子という輩は悪と私は断じたい。
 
 世の孤独な恋愛弱者男性を食い物にするカスな女はこの世からさっさと退場するか悔い改めて欲しいものである。
 
 

迷惑動画とかキチガイ動画とか馬鹿動画をついつい見てしまう理由

迷惑動画をUPする人、キチガイ動画をUPする人ってのは結論は馬鹿だからUPするんでしょって結論で良いかなと思う私です。

 

 でも、それを見る側の気持ち。心理が良く分からないのでそれを考えたいなと思うのです。現にツイッターやらユーチューブやTiktokやら毎日のように迷惑でキチガイでお馬鹿な動画は散見されます。そして、私も少なからずそれを見てしまっています。

 

 迷惑な動画が不愉快だと思うならみなければいい、キチガイな動画が嫌いならみなければよい、馬鹿な動画が許せないなら見なければ良い。というならば、見たから不愉快になるし、見たから嫌いになるし、見たから馬鹿だと思うという理屈が通るので、次回からその動画をみなければ良いわけなんですが。

 

 実際は、繰り返し、違う迷惑動画やキチガイ動画を私は見るわけですよ。検索してわざわざ見るわけではないですが、ツイッターのタイムラインにあったら見るし、SNSで拡散されてるリンクがあれば、わざわざ踏んでみにいって不愉快な気持ちになるわけです。

 

 そんで、見に行って

 迷惑動画を見て「キチガイやなぁー」とか「馬鹿だな!」とか思いはせるわけですよ! これはあれか? 踊る阿呆にみる阿呆! 同じアホだけど踊りには参加しないみたいな感じ? ようするに、見てる側も馬鹿だから見るのか?

 

 いやいや、馬鹿じゃないから、同じような行動をとらずに見て馬鹿だなと思うわけで、そういうわけじゃなかろう。では、何故、馬鹿動画を見るのか? 

 

 そういった動画を見て思う感情は、「あり得ん!」とか「気持ち悪い」とか「こいうおかしな奴もいるのだな」というのがほとんどだ。

 

 そして、そういう感想を抱きたいと自分が思ってるからこそ、そういう動画を見るわけですよ。つまり、日常の中で退屈だけど安全圏から、馬鹿な人の馬鹿な行動を見て「気持ち悪い、死ね、カス!」とか思いたいわけですよ。

 

 じゃあ、日常から迷惑な人間や馬鹿な人間を死ね死ねと思っているかというとそうでもないわけで、自分にとって不利益でないならどうでもいいわけで、相手にしないわけすが、迷惑な動画は見てついつい断罪したくなるわけだ。

 

 つまり、変なことしてる迷惑な存在や馬鹿に対しては攻撃的なことを思っても罪悪感も抱かないでいいし、自分の感じる感情は正義であるという感覚を得たいというところがあるのではないかと。

 

 人間の本能的部分であるところの他者を見下したい、見下して自分の優位を確定したい欲求。そういう部分が刺激されて快楽に感じてるだろうなと思うわけです。

 

 人は結局のところ自分とは関わりのない愚かな人や不幸な人を見て自分じゃなくなて良かった。私は今日も安全で普通で素敵な一日を過ごせている。良かった! 良かった! ハッピーみたいな気持ちになりたいのだろうと。

 

 結論を言えば、人の不幸は蜜の味。他人の馬鹿を馬鹿にするのは楽しい、悪い奴に人権はないので攻撃してもいい! みたいな人間のダークな欲求を満たせるがために、迷惑な動画や、キチガイ動画、馬鹿動画は今日も再生されるのである。

 

 だからといって、そういう馬鹿共が馬鹿な動画をUPする免罪符にはならないが、需要は常に存在するということははっきりしているのでこれからも、よりエレガントでお馬鹿でカスでキチガイな動画はUPされ続けて視聴されるのだろう。

 

 愚かなUP者ありがとう! 私は今日も元気です!

 という、言葉を持って本日は締めさせてもらいます!

 

 ではでは! 2023年 8月20日

子供を作らない、育てないと決めた人生なら自死するまでの人生設計をするべきだろう

 人生は死ぬ迄続くリアルなゲームである。だけど必ず終わりのあるゲームです。

 死なない人間はいない。いやいや不老不死の研究は進んでる、寿命も延びてる。昔は治らなかった病気も治るようになった。老化抑制の遺伝子も見つかった。そもそも老化というのを病気だと捉えて治療できるように医療は進歩するから死なない人間、不老不死になる人間が誕生するかもしれない。そうなれば話は変わってくるでしょうが。とりあえず、人は死ぬ。100年も生きれば基本は死んでいる。そういうことが前提で話をしましょう。

 

 この世に生を受けて、子供から大人になり自立する。そして次世代への生産に成功こした固体はですね。自分の遺伝子を受け継いだ子供の成長、孫の成長を楽しみに生きていく。それだけで人生は豊かである。なので、死ぬ迄頑張っていきる意味もあるなと思うのです。まあ、それいいとして。

 

 じゃあ、子供を作らない固体としてなってしまった場合である。あるのは、食欲と娯楽の追及、趣味の探求等に人生を費やすだけになってしまった人。生きて飯を食ってトイレして寝て、だらだらとするだけの人達はどう生きるのが正解かということを最近思うのですよ。 それこそ死ぬ迄生きるだけじゃね? って話ですけどね。まあ、でも生きる意味もない残りの人生は設計するのはなんと不毛なんだろうかと思うわけです。

 

 それならさっさと死んでしまえばよいわけで自刃待ったなしです。しかし、お金もあって身体も健康で飯も旨いなら、死んでしまうのはいささかもったいないわけです。

 

 もったないから、死ぬのはやめとこうってなるのが、まだ健康な人の思考でしょう。

 しかし、何時までも健康なわけでもなく。生きがいもない、子供いない、伴侶もいない。生きる意味もたいして見出せないのであればさっさと終わるのもいいかもしれない。そう悩む人もいると思う、それは私です。

 

 なので、自分が死ぬの人生設計をするべきだなぁーと思うのです。

 ようするに、何時死ぬのか! そういうスケジュールを立ててそれに向かって進むという人生プランもありなんではないかと思うのです。

 

 なので、苦しますずに自死できる手段を用意しておく必要があると私は思うのです。

 なので、日本に安楽死施設が一日も早くできるようになってほしいなぁーとここ最近は常に思うのでした。

 

 2023年5月7日

怒りの正体とは不快感の表明であり周囲に対する要望であり要求なのであります。

 生きていればムカつくことはあるでしょう。怒る感情というものを得た時に叫びたくなったり、何かを破壊したくなったり暴力に訴える人も珍しくありません。

 

 怒りの感情が何故、暴力的でったりバイオレンスな展開に繋がるのか?

 

 そういうことに思いを巡らせることがたまにあるのですよ。

 

 んで、結論からいうと、自分の身に起きている状況が気に入らない。それに対しての他者へのアピールなんですよね。不愉快だったり辛い状況を他人に伝えるために怒りの感情があるわですよ。もっと突き詰めると。自分の生存が脅かされる状況が怒りを発生させるトリガーというわけですよ。

 

 なので、怒りの感情が発生したらそれは自己の生存によって不都合な状況であることが多いのだから人はその怒りを元に現状の解決を得るためにバイオレスになるわけです。

 

 しかし、それはあくまで本能的なお話です。現代は怒りを理由に暴力で解決する手段は犯罪行為であり。不利益になることが多いです。まあ、ばれなければ、相手を殺したり殴ったりして、口をふさいで解決する反社会的な道もありますが。

 

 そういう社会はやはり生きずらいので困るので、できるだけ怒らないように、ストレスがたまらないように穏やかに生きるのびる戦略が必要なんだなぁーと思うのです。

 

 だけど、怒りの感情を得たときは、相手に上手に説明して理解を得られるような技術はもっていると怒りの感情を溜める展開が減ります。

 

 なので、怒りの感情を得たときは相手にきっちりと説明できるように。

 今は私はこれこれこういう理由で怒っているのですときっちりはっきり説明できるような人間になりたいものである。

 

 怒りを我慢するより、その怒りの理由を簡潔明瞭に説明できる人間でありたいなと思う私です。

 

                                以上!

怒りという名前の精神の話。

 

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 労働者という身分でいると常々思う。支配階級死ね。金持ち死ね。資本家死ね。労働者から搾取ばっかりしやがって本当に許せないという怒りの感情である。

 目には目を歯には歯を搾取には搾取で返せというハンムラビ法典通り労働者を搾取する金持ち連中を搾取し返して労働者として支配してやりたい! そうすれば少しは自分の溜飲が下がるのではないだろうか? そんなことを悶々として思う日々である。

 

 労働者は常に怒りを抱いているのではないか? そんなことを感じる昨今です。

 

 労働者でも辛い立場にいない人間や、ストレス度の低い職業、自分が好む職業について満足な報酬を得られている人間にそういった怒りはあまりないかもしれない。

 

 しかし、そうでない労働者。お金のために、生活費を捻出するために仕方なく身体を酷使したり、自分の生命活動の時間を消費してわずかな金銭を稼ぐ労働者は常に怒りや不満を内包しているのではないかと思うのです。隙あらば金持ちをやっつけたい。そんな思い抱く底辺労働者は多い。

 

 何故そう思うか? それは労働者が常に金持ちから搾取されているからである。

 

 労働者の労働の稼ぎから上前をはねて金持ちがより金持ちになるということが世界的にも周知の事実だからである。あらゆる企業が資本家が労働者から富を吸い上げる。無論、労働者からの不満はでる。しかし、不満だからいって金持ちをぶっ殺すなんてこともできない。

 

 それは何故か? そんなことしたら警察や治安維持機構か黙ってない。法律の名の下に労働者は資本家をぶっ殺せない。もしも、ぶっ殺そうものならその労働者は犯罪者として逮捕拘束されしょっぴかれることだろう。法律も警察もいない状態なら支配者階級なんて常にぶっ殺される対象だからである。それは歴史が証明しているところだろう。

 

 しかし、権力者や金持ち共はそういった労働者の反乱を防ぐ方法を常にアップデートしてきた。そして、今の現代まで辿りつく。現代は労働者が上に暴力をちらつかせて反逆できるようにはできてない。気に入らない金持ちの一人や二人は自爆でいいいならやれないこともないが、そいつをぶっ殺しても自分自身は幸せにはなれない。その程度に労働者は賢くなってしまっている。

 

 そうだ! 現代の労働者は愚かであり賢くもある。わずかな幸せや自身の生存存続のために苦役を味わいながらでもむやみやたら金持ちどもぶっ殺したりしない。たとえ、自分の人生の半分以上の時間を労働に捧げて金持ちの金を増やす道具として扱われて怒りすら覚えてもその怒りは支配者共にたいして発散されない。

 

 労働者の怒りの狂気は金持ちどもに届かない。その程度の洗脳に近い教育は労働者にほどこされているのが現代人である。

 

 はあ。。。 許せぬ。 金持ちが許せねぇ。ぶっ殺したい! と思ってもそんなことをしても自分が幸せなれるビジョンが見えないのである。そんなことしてる暇があったらすこしでも、自分の人生をよりよいものにする努力をするべきである。そういう思考に切り替えて現実と折り合いをつけて日々の生活を過ごすのみである。

 

 それは、つらいはな。まさに無限地獄のような人生である。とくに生活費のために労働を強いられる労働者はそうである。そして、現状を打開して労働者という階級から脱却して金持ちの仲間入りしたいのである。 しかし、思えばそう簡単に叶うものでもない。思い焦がれるが現実にそうなる努力をする厄介である。行動することは難しい。

 

 何故なのか? 自分がなりたいものになるために努力や行動を起こすことが何故難しいのか? それは何故だろうな。人間 着るものがあり、住むとこがあり、食べ物が食べれるならそこまで無理に頑張ろうという努力をしない人間のほうが多いのかもしれないな。それすら満足にそろわない人間は生きることに必死でそれどころではないし。

 もっと良いものを得ようという努力や、労働せずに衣食住を永続的に手にしたいと思わないでもないが、それを得るための努力よりも日々のささやかな時間でも怠惰な生活のほうが甘美な魅力があるのかもしれない。

 

 しかし、お金のために強制的に労働を強いられる状態は辛い。労働している時は常に金持ち死ねと心の底から思って労働している労働者は多い。常に拳銃のトリガーに指はかかったままで仕事している人もいるだろう。重機を運転しながら偉い人が視察にきたときに、これをつっこませてぶっ殺したいと思う人もいるかもしれない。しかし、そんなことはなかなか起こらない。そんなことしても現実的に誰も幸せにならないから。

 

 金持ちを一人ぶっ殺すたびに、労働者が生活費を稼ぐために労働をすることなく優雅に暮らせる世界が近づくなら労働者は金持ちをぶっ殺しまくるのかもしれない。しかし、世界はそうできていない。金持ちをぶっ殺すたびに労働者はより金持ち連中からより金持ちを殺したら不幸になるぞというシステムが構築されるだろう。まあ、戦争でもおこして金持ち側をいっきにぶっ殺してその立場をのっとれたらのっとりに成功した奴等は支配者側になれるんだろうが。現代社会ではそういう暴力によるのっとりもあまり賛否されないね。もうそういう時代じゃない。

 

 なら、日々の生活に労働する怒りあふれる労働者はどうすればいいか?

 

 諦めて、寿命が尽きるまで搾取されてよぼよぼになって死ぬのが一般的である。支配者側もそれを一番に望むであろう。

 

 一念発起して支配者側になれる努力をする。叶うかどうかはわからんが努力するというのもいいだろう。夢破れて途中で寿命がきても最後まで頑張れたならそれはそれでいいのかもしれない。

 

 やけくそなって金持ちに自爆テロをしかけるというのもあるが、自分が死んだらやはり意味がないので、誰にもばれずに貧困層を金持ちにぶつけて気に入らない金持ちをやっつけるという手もあるが。それはそれでリスキーだ。殺人の示唆は大罪であるし、金持ちが死んでもその金は殺した人間に入ることもあまりない。

 

 じゃあ、他にどうすればいい?

 とくに思いつかないのが私である。

 そして、その他の答えを常に考えているそれが私である。

 

 

 

 

親ガチャ当たり外れはあるのかもしれないけど、それこそどうしようもない事実なのでその現状をどう変えていくかしかない

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 親ガチャ外れたし駄目だわ。容姿も教育も人脈も親が与えてくれるものであり、恵まれない親の子供に生まれたら人生は敗色濃厚でやる気もでない。だけども、死ぬわけにもいかんわな。羨ましい家に生まれた人間を恨み一発かましたとしても、犯罪者となり地獄に落ちるわけですし。それなら、奴隷のように働くより、勉強してどうにかして奴隷を管理できるようなポジションにつくほうがまだましだ。とか、なにかしら努力して有名になりユーチューバーという道もあるかもしれない。

 

 親ガチャ。お金持ちの家に生まれるかどうか? これが人生の幸せにおける確率を高めるという統計データは昔からあるわけで。それは否定のしようもない事実であるのはしょうがないことです。生まれが納得いかないから納得いかない人生を送ることになると決め付けて生きるくらならとっとと人生を終わりにするという選択肢もありますが、普通に死の恐怖は超越するなんて超人的な真似は普通の人できないわけです。

 

 納得しようが、しまいが。現状生きているわけで生きていくしかないわけです。何時か死ぬかは分かりませんが、その日までだらだらでも、嫉妬のホノウを燃やして生きてもそれはそれで死ねば無です。死んだら終わりだから好きに生きればよいし、親ガチャが外れだーと思いながら無念の死を迎えるか、親ガチャ外れやたったけど俺は私はある程度は頑張ったな満足だと思える人生にするかどうかはまさに自分次第でしょう。

 

 結局は人生どんなめにあっても開き直って前向きなってなにかしら幸せになれるように行動しないと辛いなだけなのです。そう言い聞かせて一日一日を凌いでゆっくりと枯れて朽ち果てるというのが大半の人の人生なのではないかと思います。

 

 むしろ、親ガチャ外れだし、後ろ向きになってなんにもしない、やる気もない。羨ましいしむかつくから他人の足を引張りったり、資産家の家を襲撃して強盗殺人を犯すような人生がお望みですか? そんな人生を送る人達もいるにはいますが。それはそれで無茶苦茶な人生であり幸せな人生とは言えないと思うわけです。

 

 じゃあ、親ガチャ外れたけど、どうすれば幸せになれるのかって話しですが。

 そんなのしるわけないじゃん。

 それが唯一の答えなんじゃないかなーとこの年になっても私は思うわけです。

 

 どんな生き方をしようと、最後は死ぬわけで。死んだらその先のことなんて誰も知らないしどうなるかもわからんのだから。それだったらもういっそ開き直って人生を楽しむために生きる! しかし、この世は生きるために楽しむためにお金が必要でそのために苦労する人、そうでない人が分かれるわけです。

 

 だから、親ガチャがはずれだ! 貧乏な家に生まれた、親が酷い虐待をすると、いった家庭環境に恵まれず育った人はこの世を楽しむことが困難であることは事実です。そこは悲観するしかないでしょう。しかし、それでも開き直って前向きに自分にとって必要なお金を得る努力をした人間は結構楽しい人生を送ることができます。

 

 なので、親ガチャに外れたとしても、自分にとって必要な金銭を得る手段を確立すればそれなりの幸せは待っています。なので、その努力するべきです。とりあえず、守銭奴になれば個人的には幸せになれます。むしろ、守銭奴な人間で幸せでない人間はあまりしらない。お金を稼ぐが得意でなおかつ、お金を使うを渋る人間。こういった人間は基本、頭もよく使うので頭も良くなるし、お金の使い道を良く考えて使うのでお金に困ることが少ないです。なので確立的に幸せになれるでしょう。

 

 なので、親ガチャに外れたなと思う人はしょうがねーと開き直って守銭奴を目指せばいいのです。それで解決! 

 

                 エニュウェイ