迷惑動画をUPする人、キチガイ動画をUPする人ってのは結論は馬鹿だからUPするんでしょって結論で良いかなと思う私です。
でも、それを見る側の気持ち。心理が良く分からないのでそれを考えたいなと思うのです。現にツイッターやらユーチューブやTiktokやら毎日のように迷惑でキチガイでお馬鹿な動画は散見されます。そして、私も少なからずそれを見てしまっています。
迷惑な動画が不愉快だと思うならみなければいい、キチガイな動画が嫌いならみなければよい、馬鹿な動画が許せないなら見なければ良い。というならば、見たから不愉快になるし、見たから嫌いになるし、見たから馬鹿だと思うという理屈が通るので、次回からその動画をみなければ良いわけなんですが。
実際は、繰り返し、違う迷惑動画やキチガイ動画を私は見るわけですよ。検索してわざわざ見るわけではないですが、ツイッターのタイムラインにあったら見るし、SNSで拡散されてるリンクがあれば、わざわざ踏んでみにいって不愉快な気持ちになるわけです。
そんで、見に行って
迷惑動画を見て「キチガイやなぁー」とか「馬鹿だな!」とか思いはせるわけですよ! これはあれか? 踊る阿呆にみる阿呆! 同じアホだけど踊りには参加しないみたいな感じ? ようするに、見てる側も馬鹿だから見るのか?
いやいや、馬鹿じゃないから、同じような行動をとらずに見て馬鹿だなと思うわけで、そういうわけじゃなかろう。では、何故、馬鹿動画を見るのか?
そういった動画を見て思う感情は、「あり得ん!」とか「気持ち悪い」とか「こいうおかしな奴もいるのだな」というのがほとんどだ。
そして、そういう感想を抱きたいと自分が思ってるからこそ、そういう動画を見るわけですよ。つまり、日常の中で退屈だけど安全圏から、馬鹿な人の馬鹿な行動を見て「気持ち悪い、死ね、カス!」とか思いたいわけですよ。
じゃあ、日常から迷惑な人間や馬鹿な人間を死ね死ねと思っているかというとそうでもないわけで、自分にとって不利益でないならどうでもいいわけで、相手にしないわけすが、迷惑な動画は見てついつい断罪したくなるわけだ。
つまり、変なことしてる迷惑な存在や馬鹿に対しては攻撃的なことを思っても罪悪感も抱かないでいいし、自分の感じる感情は正義であるという感覚を得たいというところがあるのではないかと。
人間の本能的部分であるところの他者を見下したい、見下して自分の優位を確定したい欲求。そういう部分が刺激されて快楽に感じてるだろうなと思うわけです。
人は結局のところ自分とは関わりのない愚かな人や不幸な人を見て自分じゃなくなて良かった。私は今日も安全で普通で素敵な一日を過ごせている。良かった! 良かった! ハッピーみたいな気持ちになりたいのだろうと。
結論を言えば、人の不幸は蜜の味。他人の馬鹿を馬鹿にするのは楽しい、悪い奴に人権はないので攻撃してもいい! みたいな人間のダークな欲求を満たせるがために、迷惑な動画や、キチガイ動画、馬鹿動画は今日も再生されるのである。
だからといって、そういう馬鹿共が馬鹿な動画をUPする免罪符にはならないが、需要は常に存在するということははっきりしているのでこれからも、よりエレガントでお馬鹿でカスでキチガイな動画はUPされ続けて視聴されるのだろう。
愚かなUP者ありがとう! 私は今日も元気です!
という、言葉を持って本日は締めさせてもらいます!
ではでは! 2023年 8月20日