プラネテスというアニメで「好きの反対は嫌いじゃない、無関心だよ」と、人に説くシーンがあるんだけど、それは違うと思う。
好きの反対は嫌いですよ。
人間の好きという状態と無関心という状態と嫌いの状態を考えるとこうなる。
好き +1
無関心 ±0
嫌い -1
こうだと思うんだよね。
そんで、通常は無関心の状態。
もしくは、0からプラス1に近い状態とかマイナス1に近い状態だと思う。
ポジティブ状態がプラス域 ネガティブ状態がマイナス域
まあ、ポジティブな状態が嫌いな人はポジティブ状態をマイナスとか思うだろうし、ネガディブ状態を好む人はネガティブがプラスなんでしょう。
そんなコトは実はどうでもいいんだ。
でもね、嫌いなモノに対する心根ってのは消えて欲しいって相手に望むとコトだと思うんですよね。
ようするに、マイナスをゼロにしたい行為なんですよ。
無関心っていうのは好きの反対じゃなくて中立で、そんなのどっちもいいんだよ! 関知したくないんだよ! あってもなくても影響しないモノですよね。
そういうコトだと思うんです。
0に可能性ありません。
だけど嫌いには可能性が残る。
可能性とは、嫌いが好きに変わるというコトですね。
ここが面白いところですよね。
僕が小学1年か2年くらいだったかな。友達とクワガタを見せ合いっこしてて、友達がクワガタのメスに指を噛まれたんです。
結構痛かったらしくて、友達はキレてそのクワガタを踏み潰しました。
これが嫌いに対する自然な行動ですよね。
友達はクワガタが好きだったけど、噛まれたコトで嫌いになったんです。それだけのコトなんですよね。
もっと、いうとですね。部屋に蚊が飛んでたら目障りだから潰す人がほとんどだと思うんですよね。
蚊からしたら生きるために血をもらわないといけないんですけど、しゃあないです。
蚊に対して無関心でいるなら蚊を潰さず無視しますよね。好きなら血をあげますよね。
でも、蚊が血を吸う変わりに、君の悪い病気を治してあげるよ! ってなったら蚊を好きになると思うんですよ。
友達に踏み潰されたクワガタだって、もし言葉が喋れて「噛んでごめんね」って言ったら友達も踏み潰さなかったと思う。
そんですごく前置き長くなったけど、こっからが本題!
コンテンツに対して信者とアンチっているじゃないですか。
信者はそのコンテンツ愛して盛り上げて、そんで拡大に向かえばいいんですけど、アンチが何故か信者に変わるって現象ってあるじゃないですか。
あれって、嫌いなモノには消滅して欲しいんだけど、嫌いなだけに無視出来ないんですよね。
だからついつい監視してしまう、動向が気になる。消滅の確認をしたいけど、例にあげたような蚊のように病気を治してくれるとか、噛んできたクワガタが喋れるように変わったら好きにってもらえる可能性がでてくる。
こういうコトなんですよね。
だからアンチ商法がなくならない。
だからワザワザ嫌われるようなコトをする人が増えるのかなーって思う。
アンチの本当の正しいポジションは無視か消滅行動に走るとういのが正当で王道なのかなーって思う。
そんで流石に嫌いだかと言って相手を弑すコトは犯罪です。蚊やクワガタとはワケが違うのでやってはならんですよ。
それに気づかず追っかけてるうちに相手が好きになってしまうと、相手の思うつぼなんでそれはマヌケな話かなって思う。
何も考えず嫌ってるようでは好きになる可能性を相手に与えているいるだけだから、本気で嫌いなら無視するように努力するのが王道。
でも、自分の好みに変わって欲しいと思うなら嫌い続ければいいのかも?
だから、アンチがわざわざ嫌いな人に「嫌い!」「ゴミ」「クズ」とか言うのは単純に消滅して欲しいからだけであって、好きの反対なワケですよ。
本気で嫌いと思う人は消滅して欲しいと思うアンチ
「嫌いにさせないでー」とか「ゴミにならないでー」とか「クズをあらてめてー」とかそういう変化して欲しい声でもあるのでしょう。
変わって欲しいと思うのは好きになりたい信者予備軍アンチ
こういうコトでしょう。
だから、好きの反対は無関心ではなく嫌いでしょ!
って思うのです。
チェンシン
「好きの反対は嫌いじゃない、無関心だよ」
このキャラが現実にいたらそういうふうに伝えて、反応を伺いたいです。
という、すごく簡単な話を長く書きました。
好きなモノには肯定する力が働くし
嫌いなモノには否定する力が働くし
どう考えても好きの反対を無関心にもってこれない僕でした。
やっぱり好きの反対は嫌いだよ!
それでいいんだよ!
ちゃんちゃん。
余談)>>
ただ、私にはあるものを本当に嫌いだと思う人は、最終的にはそれを好きになってしまうという理論には納得できませんね。本当に嫌いならありとあらゆる手段をもって、それこそ対象が完全消滅するまで徹底的に叩き潰してしまうでしょう。それに執着するあまりその対象を好きになってしまうというのは、ごく一部の例でしょうね。
>>
これに関しては、アンチはアンチでもまた分化すると思うんですよね。 確かに純粋なアンチは「対象の消滅」を願うのですが、「対象の消滅」を願うより、対象に変わって欲しいという願望を人は人に思ったりするのではないか? とか、関わってるうちに、対象の違う一面を知ってしまいそれがギャップとなって好意に変わるとか、そういうアンチの分化は色々とあると思うんですね。 無視できない存在だけに執着し続けると対象を理解するように自然と変わっていく人もいるのです。
そんで、人なら悪い面もあるけど、良い面もあると思うので良い面を受け入れた時、嫌いであったコトすらも、まあ、いいっかーってなって、信者の道に行くのかなって思います。 でもごく一部の例と言われるとそうだよなーって思います。ただ、でもアンチ的に存在になるとそれだけ騒がれる要因になるのでアンチの数が増えれば、増えるほど、信者が増えるのは、そういうアンチの分化の果ての執着による信者化という現象が一役買ってるような気がするなーっていのが実は副題だったりします。
なので、嫌いな存在がいたとしたらスルーが一番相手には効果的ということなんですが、それでは、悲しいので、マザーテレサは好きの嫌いは反対じゃない無関心って言ったのかもしれませんね。
でも、僕は好きの反対は嫌いだと思うのです。
貴方はどう思いますか?