他人の生理的性的活動が異常性となって他人に映るコトが良くあるけれど、それって自分は許せて他人は駄目であるコトが多いのではないかと思ったり、思わなかったりする、ねここねです。
「えっちなのはいけないと思います!」
これは、他人の生理的性的欲求を一言で悪しき場所に追い落とす言葉だと僕は思う。
いや、世界は広い、広大だ。清廉潔白で曇りもなく、性的欲求を持ったコトのない人もいるだろう。
夜、部屋で一人きりの時に起きる精神的異常を抑制するための物理的慰め活動をやったコトがない人もいるには、いるかもしれない。
だけど、多くの人はソレを経験している。
しかし、多くの人はソレを他人に見られるコト、知られるコトに異常性を発見されたと思い、苦しんだり、この世の終わりだと思ったりもする。
その元凶がこの「えっちなのはいけないと思います!」という思想であると僕は思う。そして、エッチであるというコト、その度合いをその人の本性だとかなんとか言って、相手を貶める輩もいたりする。
しかし、人間の性的欲求に対するそういった面の評価なんてのは便所でトイレをする行為を評価しているにすぎない。
確かに、便所でトイレをする行為にもいろいろある。
僕は綺麗好きなので、トイレをすませるとトイレが汚れていようがいまいが清掃するような癖があったりする。
これに対して、貴方潔癖症なのね。なんてコトを言う人もいるが、そうじゃない。単純に次にトイレに立った時に自分が不愉快になるからしてるだけで、特にソレを潔癖症だとは思ったりもしない。
だからと言って、コレを他人に強要するコトもない。
汚れていたら、自分が綺麗にするくらいなもんである。
便器が汚れていても気にしない人もいるだろう。しかし、便器でやるコトは同じである。
そして、エッチなコトもそれと同じである。
だから、恥じるコトも何もない。
ただ、問題点あげると生理的な欲求を人が発揮する時、人は隙だらけとなり、そこを攻撃されると、無防備に近いだけにとてつもない計測不能ダメージを受けてしまうというところだろう。
しかし、それは快楽の代償としてだから、イーブンな関係だろう、そこはもうしょうがない。
僕らが出来るコトは、出来るだけ第三者に介入されないような性的趣向の発揮場所を作ったり、探したりして全力で守るコトだろう。
だから他人のそういうところを見てしまっても「全力をあげて見逃してあげる」というのが人類の平穏に繋がるかもしれない。
というコトを、朝起きて思ったのでした。
そして、付加えるなら まほろさんは悪くない!
だから、エッチなことは悪くないのだ!!!
貴方はどう思いますか?
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